-6-
食事の場所に戻るのが嫌で、俺はトイレに行くことにした。便器に対面しても当たり前のように何も出なかった。一応手を洗って外に出る。ちょうどトイレから出たときに二木が来た。
「代わりに買ってあげるのか」
「健三にとってそのほうがいいでしょ」
「そうだな」
二木は俺の前に立ちはだかったままだ。後ろのトイレにも行こうとしない。まだ話の続きがあるみたいだ。
「さっき刑事に会った。そしたら知り合いで、しかも同性が犯人の可能性があるって言ってた」
「よれよれの刑事だよね。あんまり信用しないほういいよ」
見てくれもひどい刑事だった。警察とホームレスのハーフみたいな感じだ。それだけで信用ならないのに、嘘もついた。あいつは最後の他の人に聞き込みしないと言ったはずだ。二木にも話をしにいっている。
「たしかにスーツはよれよれだったな。だけど、びしっとした口調で俺に警告をしてくれた。身近にいる可能性があると」
「けいこく」と思わずつぶやいてしまう。俺に聞き込みに来た警察はあたかも俺が犯人みたいな推理をかましていた。理由は悲しんでいないからという、小学生みたいな推理だった。だけど他の人のところには、警告して回っているのだろうか。俺のあれも一種の警告だったのかもしれない。
「直己。知り合いで同性って」
「あの警察は信用できないよ。だって警告する意味がないし。目星がついているなら、さっさと犯人を捕まえるでしょ」
「そうだな。でも、知り合いで同性の」
「いやいや、だから、それを考えて、誰々が危ないんじゃないかって警戒する必要がないよ」
俺は二木に先を言わせないように、かぶせるようにまくしたてる。二木が言う『知り合いで同性の』の続きは個人名が出てきそうな気がする。その候補で、今だったら考えられるのは、俺らのお母さんか、翔の妹、それと夏凪ぐらいのものだ。俺らが推理して疑いあうようになるのは嫌だ。
「悲しむ演技はできないのに、そういう演技はできるんだな」と二木が言った。
「どういう意味だ?」
「そのまんまだよ。『犯人は誰だ?』って顔をしている。俺に向かってよくそんな表情を作れるもんだ」
俺がそんな表情をしていたかどうかは甚だ疑問だ。二木の妄想だろう。
「そんな顔はしてない。けれど、ごめん」
怒らせる趣味もないので、俺は薄っぺらいけれど謝ってみた。だが、それが逆に二木の逆鱗に触れたみたいだ。
「おまえいつからそんな風になったんだ?いつからそんなひどい人間になったんだ?」
二木にとって悲しまないのはひどい人間とイコールなのだろう。たしかに人の死は普通悼むものだ。俺だって悲しまないといけないと思っている。けれど友達をひどい人間と評価するのもいけないことだと思う。
「いつからと言われても困るよ。ずっとこうだったし。それこそ幼稚園の頃から。二木なら知ってたでしょ」
同じ幼稚園でずっと友達同士だったから、俺のことはよく知っているはずだ。
「知らない。お前がそんな奴だなんてな」
握られた拳に血管が浮いていた。あれは義憤だろうか。俺のことをひどいと言うのも、俺のためを思ってからなのかもしれない。その震えて白くなった拳が上まで来て、俺を殴ればいい。皆と少しずれてしまった心を無理やりにでも動かしてほしい。それがもとの位置に戻っても、さらにずれたとしてもいいから。
「翔子は、直己のこと好きだったんだぞ。ずっと。ずっと好きだったのに。お前はなんも悲しいとか、つらいとか思わないのか?」
翔子が俺のことを好きだと言うのは周知の事実だった。直接言われたことはない。だけど、俺ですら気付けたぐらいだ。すでにみんなにばれていた。
「悲しくなんかない」
「直己ぃ」
二木は握った拳を開いて、その手で俺の胸ぐらを掴んだ。残った左手は振り上げられて、今にも俺の頬を殴りそうだった。構えたままの状態で二木は止まる。ひねるように掴まれた胸ぐらは、服が上にあげられ首が絞めつけられている。ぶるぶると腕は震えていて、俺の首に振動を感じた。
二木の目は俺を見据え、鼻息が荒く聞こえてきた。
「お前なんて殴る価値もない」と二木は手を放した。
人を悲しまない俺は殴られる価値もないのか。サンドバック以下の存在。いや、そんなわけはない。殴るのに価値なんて必要ないだろう。結局これも、二木があいつの死を悲しんでいるというアピールの一つなのだろう。悲しみを怒りという形で表わしているだけ。
「直己、俺はお前が嫌いだ」
「知っているよ。お前が俺を嫌っていることぐらい」
二木は俺の横を通りトイレに入っていった。俺は二木が見えなくなってから、歩き出す。二木が行ったほうと逆方向に、皆がいる部屋に向かった。
食事の部屋は元の静けさを取り戻していた。兄弟のけんかや、母親の自失を見てもなかったことにするのが常識みたいだ。雄二と健三は二人で小皿によそったご飯を食べていた。もぐもぐと言うよりはもそもそと音もなく食べている。
俺は翔と夏凪のもとに行くと、ちょうどあいつの母親も来るところだった。
「あの」
「なんですか?」
先ほど取り乱していたにも関わらず、母親は平然としている。健三と抱き合って、泣いていたことももう昔のことになっているのだろう。
「これ、なにかわかる?」と夏凪に紙を渡した。俺と翔は横から覗いてみる。小さな長方形の紙に、お世辞にもきれいだとは言えない字で「いちょうのきのした」と書いてあった。
俺はこの紙に見覚えがあった。すごい昔の話だ。
「これはダイニングメッセージか?」と翔が言った。
「それを言うならダイイングメッセージ。『レンジでチンして食べてください』とか書いてあるのかよ」
ダイイングメッセージという声が聞こえたのか、雄二と健三が来た。小学生でもその言葉の意味を知っているのだろう。
「ねぇ、それってダイニングメッセージなの?」と雄二が翔に訊いていた。
「かもしれない。ダイニングメッセージかも」
「だからダイイングだって。そもそもこれは違うよ。これはタイムカプセルの場所を書いたやつだよ」
俺とあいつと夏凪の三人が前に埋めたものだ。幼稚園のころ、小学生に上がる前に当時大切にしていた物を未来の自分に向けて送った。俺個人ではたしか、手紙とかきれいにできた最高傑作の泥団子とか入れた気がする。
「タイムカプセルって、幼稚園のころの?」
「そう」
「いちょうの木の下にうめたんだ?そういえばそう言われたような」
「夏凪はあのとき、すごい高熱だったんだよね。俺とあいつで埋めたんだ」
俺たちはあのとき夏凪が死ぬと思った。今思えばただ風邪をこじらしていただけだった。結局、二人で埋めることにして、ベッドに伏せている夏凪からいろいろと埋めるものを預かった。
「そうだったね。いちょうの木って、幼稚園にあるでかいやつだよね」
「そうだけど」
幼稚園に一本だけそびえたつように大きな銀杏の木がある。校庭の隅にそびえたっていた。ギンナンはならない木だった。最近になっていちょうの木には雄雌があることを知った。銀杏の木は雌だけギンナンがなる。幼稚園にあったのは雄だったわけだ。
「犯人の手がかりがあるかも」と雄二が言う。
「ないよ」
「そんなの見なきゃわかんないよ。直己兄ちゃん。見に行こう」
「ないって」
雄二は食い下がらない。噛みつくように、見に行こうと言い続ける。開けても手がかりになるものはない。俺はわざわざ掘り起こす理由がなかった。
夏凪が横から、俺に「いいじゃん。あけようよ。手がかりはなくても、思い出はあるでしょ」と雄二の援護射撃をしてくる。
俺は開けたくなかった。理由はいろいろとある。けれど一番の理由は穢れてないときの自分を見たくないからだ。純真無垢だったころを、振り返ってしまえば今の自分が嫌になるに決まっている。わざわざ幼稚園まで掘り起こしに行って、不幸な気持ちになりたくない。
あいつが死んで、思い出を探したい気持ちはわかる。でも、もう十分過ぎるほどある。この町で生きていた俺らは、三人の思い出も、五人の思い出もある。タイムカプセルを開ける必要はないだろう。
「いいね。行こう」と翔も乗り気なった。健三もみんなと同じくやる気がある目つきをしている。ここで異端者はまた俺だけになっている。
「わかった。行くのはいいよ。でも、場所はわかるの?」
「銀杏の木の下だろ?」
「違うよ。これはひっかけというか、宝の地図みたいな、えーと、そう。暗号だ」
「暗号?」と夏凪が不思議な顔をする。
「そう。暗号。これはフェイクで本当の隠し場所は違うところにある。夏凪にもたしか教えたはずだけど」
夏凪は「うーん。そうだったかな」と頭をひねらした。翔と兄弟二人は、「暗号?」と声をそろえて言う。
「で、どこなんだ?」
「忘れた。場所もその暗号の解き方も」
「夏凪は?」
「えー。しらないよ」と夏凪は首を振った。翔はあからさまな溜息を吐いた。
二木がトイレから戻ってきて、俺らのもとに来た。目が合うと、俺ににらみを利かしてきた。俺はさっきの言葉を思い出して、少しむなしい気持ちに襲われた。夏凪が持っていた紙を二木に見せて、「これ、タイムカプセルの場所なんだけど。どっかわかる?いちょうの木の下じゃないんだって。あんごうらしいけど」と今まで流れを説明した。
その紙をちらっと見て、二木は「わかんない」と言った。
「ねぇ、直己。ほんとうは覚えているんじゃないの?」
「覚えてない。だけど、子供の知恵で思いつくようなもんだから」
子供の力で考えたものは、大人の頭脳なら簡単に解けるものである確率が高い。でもたまに、子供の考えは柔軟すぎて、逆にわからない場合もある。
「どんな感じだったかも思いだせない?」
俺は視線を夏凪からはずして、右上に持っていく。何もない空間を見つめてから、あいつの母親の方を見た。答えを返さないで、うろうろと違う場所を見る俺を見る夏凪の視線が右側から痛いほど感じた。
「この紙ってどこにありました?」
「机の中を整理していたら、奥の方に缶があって。開けてみたらこれだけが入ってました」
もう一回、夏凪の方に視線を戻して、「たしか、場所もキーだった気がする」と言う。
「きぃ」と夏凪が繰り返して言った。
蝙蝠の鳴き声みたいだ。それかドアを開けるときの効果音。
「キーは鍵だよ。キーワードとか言うでしょ」
俺は一応説明を入れた。すると納得したように頷いた後、「しっていたけど?」といらない見栄を張っていた。
「っていうことは、その、どういうことだ?」
「暗号を解くためには、たしか場所も重要だってことだよ。『机の奥』とか、『引き出しの中』、『缶の中』そういうのが関係している。たぶん、そんな感じだったような気がするよ」
「かんのなか?うーん」
夏凪がそう言ったのを皮切りに、皆は各々頭の中で推理をし始めたみたいだ。翔は顎をつまむように手を当てて、眉間にしわを寄せている。夏凪の方から「うーん。うーん」と声が漏れ出ているし、兄弟たちはそんな二人をまねして、同じようなポーズを取っている。二木に関しては、俺を見ていた。目が合ってもそらさずじっと俺を見据えている。
頭の中で先ほどの「俺はお前が嫌いだ」という言葉がリピートされた。さらに「悲しむ演技はできないのに」と流れた。
「あっ」と夏凪が大きな声をあげる。「わかったかも」と興奮した様子だった。夏凪にみんな注目して次の言葉を待った。
「あのさ、木の下ってさ。漢字の「木」の下部分ということなんじゃないの?そしたら上を隠したら」と言って、夏凪は人差し指で宙に「←」のようになぞった。
「やじるしになるじゃん。だからあのいちょうの木にきっと、やじるしが書いてあるんだよ。きっとそうだよ」
夏凪は鼻高々にそう説明した。かなりの興奮を見て取れたが、俺らの方は少し冷めていた。
「でも、紙の隠し場所関係ないよ」
「銀杏の木にどうやって書いたんだ?ペンじゃ見えないし、ナイフとかなら園児は使えないだろ」
「そんなことするなら、普通に木の下に埋めたほうがましだ」
俺、翔、二木の順番で否定材料を言う。雄二と健三はおろか母親の方もちょっと残念な子を見るような顔をしていた。
「なに?なんかもんくあるの?じゃあほかに意見だしてよ」
「いや、たとえばな」と翔がまるで幼い子を相手にするかのように、優しく夏凪に言う。
「木の下なんだから。五十音を考えると『き』の下で『く』になるよな。だから『いちょうのきのした』は『いちょうのく』になる。つまり『いちょう』が『く』と解釈すれば、『つくえのおく』の『く』の部分に『いちょう』を入れるとかするんじゃないかな。矢印とかじゃなくて」
「よくわからないけれど、じゃあいれてみたらどうなんの?」
夏凪は皆から即座に否定されたのが悔しいみたいで、ふくれっ面をしたままだ。
「それは、その『ついちょうえのおいちょう』になる」
「どういういみ?」
「知るか」と翔は笑いながら言った。
いつのまにか皆、この暗号の推理を楽しんでいた。今はまだ通夜の時間であることも忘れたみたいだ。この状況がいいことかどうかは俺は判断できない。けれど、結局本当に悲しんでいる人だって、ずっと悲しんでいるわけじゃないだろう。俺が一回でもみんなの前で悲しい演技をして成功すれば、俺もみんなの一員に戻れるかもしれない。そして俺もみんなと同じように悲しめる人、つらい事件があった人という二つのレッテルを貰える。でもそうまでして手入れるものでもない。
俺はこの推理合戦には参加せずにいた。皆がなぜか楽しそうにしているのを、少し遠い位置で眺めていた。結局この食事が終わろうとするころまで続いていた。この暗号は解けられなかったみたいだ。
解散の時間になって、またしんみりとした空気が漂った。明日もまだ葬式の続きはある。今度はさらに多くの人が集まって、あいつは最後に骨になるまで焼かれる。遠縁の人や、ちょっとした知り合いまで呼ばれることになるので、俺みたいに前髪で顔を隠す人は多くなることだろう。
俺はそれを見るのが嫌だ。自分の卑しさしか映してくれない鏡を見るような気持になるに決まっている。明日の葬儀に出たくなかった。
ちょうどあいつの母親が話し終えて手持無沙汰にしていた。そういえば経を読まれていたとき、焼香をしていたとき雄二と健三の姿が居なかった。健三はまだ幼いので、騒がないように別室にいたのだろう。雄二が相手をしていたと考えらえる。明日はさらに長い時間待たされることになる。だれか保護者がいたほうがいいのではないだろうか。
「あの、俺、明日、その」
「どうしたの?」
「いえ、明日ですが、雄二や健三の面倒見てもいいですよ」と提案した。
「それは、ありがたいですが。でも大丈夫ですよ。雄二がいますし。それに本当に最後になりますから。もう本当に会えなくなってしまいますから。ちゃんと直己君の中にあの子の思い出を残してあげたいんです」
確かに葬式はあいつとの最後の思い出の蓄積みたいなものだ。あいつとの物語の締めくくりだ。でもだからこそ、他の皆のためにも悲しんでいない俺みたいな不純物が混じってないほうがいい。
「あいつとの思い出はもう数えきれないぐらいあります。これ以上むりやり詰め込んだら涙と一緒に流れてしまいそうなんです。もちろん火葬するときは、本当の最後の時は、ちゃんと出席しますから」
俺はまっすぐ目を下を向けて、お願いした。合わす顔はないが、頭を下げるようなお願いでもない。目だけをただ伏せていた。
わずかな時間が過ぎた。その間あいつの母親は何も言わなかった。しばらくして「じゃあ、お願いするわ」とだけ言って許可してくれた。
「俺もじゃああいつらの面倒を見るから」といつの間にか隣に来ていた二木が言った。
「え?いや、二木はそうじゃないでしょ?」
「なに言ってんだ。俺は俺なんだよ。お前とは違うけれど、俺の意思がある」
二木は俺とは違って悲しんでいるはずだ。二木の意見には、母親はすぐに「わかったわ」と許可する。
「じゃあ二人とも、明日は悪いけどお願いね」
あいつの母親はそういって、違う人の挨拶に向かった。二木も俺に目を向けず立ち去ろうとする。俺はその背を呼び止めた。二木は立ち止まって、嫌な目をしつつも振り返る。
「なんでもない」と言うしかなかった。それを聞き遂げて、二木はまた俺に背を向けてどっかに行ってしまった。その背中は物寂し気に見えて、俺は目をつぶった。




