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暗くなった道は寂しい。ただ直立している電信柱ですら物憂げな様子に見えてしまう。
昼間に比べて人の人数は変わってはいないはずだ。車も通れば、帰宅途中のサラリーマンだっている。変わったのは明るさがなくなっただけ。
ただ少し音がおしとやかに耳に入ってくる。それが寂し気な雰囲気を醸し出しているのかもしれない。
少し残ったコーラを一気に飲もうと缶を傾ける。まだ結構な量が残っていて、喉で炭酸が暴れた。思わずむせてしまい勝手に涙が出てくる。ここに二日のなかで始めての涙腺の刺激だ。口の中には甘い余韻が残っている。目と比べるとわずか数センチの距離なのに、随分とギャップがある。その差が笑えてくる。
夜道を笑いながら歩いている俺はまわりからすると奇妙な存在だっただろう。気付いた時には道は誰もいなくなっていた。動けない電信柱だけ、俺から逃げずに残っていた。等間隔で並ぶ電信柱はやはり、どこか愁いを感じた。
空になった缶を捨てる場所もなくて、べこべことへこませながら持っていた。家にもうすぐたどり着くころにやっと街灯よりも光っている自動販売機を見つける。その横にある缶捨て場に投げ入れると、他の缶とぶつかり軽い金属音がした。
横を通った車がクラクションを鳴らして、少し先で止まる。助手席側の窓が開いて、翔の顔が出てきた。
「今、帰りか?」
「うん」
「乗ってけ」と翔は後ろのドアを指した。車は白の普通車だ。見慣れた翔の家の車で、昔乗ったことがある。外から運転席を見ると、翔の母親が座っていた。後ろの席には誰も乗っていない。ドアを開けて体を車の座席に滑り込ませる。心地よい低反発と、居心地の悪いよその車のにおいがした。
「家に寄る?」とおばさんが訊いてきた。
「大丈夫です」
「あら、そう?」
おばさんは快活にしゃべっている。でも、こっちを見て話しはしなかった。ルームミラーですら明後日の方向を映しているので後ろからは表情が見えない。
「お母さんは先にいるよ」
「そうですか」
おばさんはもう何も言わなかった。無言でハンドブレーキをおろして、車を発進させる。徐々に加速していき、俺の家を横抜いた。そのまま道のりを進んでいく。窓の外を見ても、歩いているとき段違いのスピードで、家や人が後ろに動いていく。電信柱などすぐに見えなくなって、柱の憂鬱など微塵も感じることなどできなかった。
20分ぐらい車に揺られていると、全く知らない場所に来た。大きな玄関の前で止められる。
「先降りて。もう中入っていいから」
翔が降りてしまい、俺も後を追って車から出る。ドアを閉めてすぐ、車は駐車場らしき車が並んでいる方に行ってしまった。俺と翔は顔を見合わせる。
着いた場所はおそらく通夜を行う場所だろう。建物はクリーム色と茶色を混ぜたような色の外壁で、立派な公民館みたいだ。玄関の横にセレモニーホールと書かれた大きな表札がライトアップされていた。
「セレモニーってなんだっけ?」
「儀式」と翔は言って、臆せずに中に入っていった。
「儀式ね」
一人で残っている意味もなく、俺もホールの中に入った。玄関で運動靴からスリッパに履き替え、ペタペタと音を鳴らして翔の後をついていく。翔はローファーだったのでスリッパを使わなかった。あたりは耳が驚くほど静まり返っていた。どこからも人の声がしない。ジーと蛍光灯が少しだけ鳴っていた。
一本道の廊下を、案内に従って進む。奥に行くにつれて、わずかながらに騒がしくなってきた。
「あら、やっと来たのね」
声をかけてきたのは俺の母親だ。制服の格好でカバンをそのままを持っていることに気付き、「直接来たのね」と言われた。
「そうだけど」
高校生にもなると母親との会話を友達に聞かれるのは少し恥ずかしい。さらに、母親の目が赤くなっているので、さらに恥ずかしさが募った。
「こんばんは」と翔が母親に挨拶した。
「翔君も来たのね。みん。えーと。夏凪ちゃん達ももう来ているわよ」
「皆もう来ているんだね。俺らももう入ろうか」
母親は俺をじろっとした目で見てくる。五人から一人減ろうが、皆という言葉が禁止される道理はない。そういう風にいらない気を遣うほうがおかしい。
俺は扉を開けて、中に入る。通夜の会場は背もたれが丸いパイプいすが左右に分かれて真ん中に通路ができるように並べてある。俺のイメージでは座布団が並んでいるものだった。まさかパイプいすだとは、これではスリッパである俺は少し浮いてしまう。
右前にいた夏凪が俺と翔の入場に気付き、手をあげて呼んできた。スリッパで音を鳴らさないように足をスライドさせて歩いて向かう。夏凪がいる列まで行って、手刀を切りながら前に進んだ。夏凪の向こう側に二木がいて、こちら側に二つ席が確保してあった。俺は夏凪の横に座って、俺の右側に翔が座った。
夏凪は学校の制服じゃなかった。いつの間に着替えたのか、グレーのワンピースを着ている。口にひかれた紅が、いつもの雰囲気を変えていた。
「いつのまに着替えたの?」
夏凪は俺を見て、それから見つめてきた。しばらく見つめあったあと「さっき」とそっけなく言われる。
「それはそうだろうな」
俺が言うと、夏凪は俺から視線をそらし、前を向いてしまった。
あらかた席が埋まったころ、お坊さんが式場に入ってきた。ゆっくりと真ん中の通路を歩いて、先頭まで行く。お坊さんだけに作られた座布団の一席に座る。後ろから見てもきらびやかな衣装を着ていると思った。左肩から、右脇にかけて金色が基調の布をしている。きらきらとたまに蛍光灯からもらった光を反射させていた。ここでちかちかと感じているぐらいだ。おそらく近くで寝ているあいつはまぶしくてしょうがないだろう。
司会者らしき人が、通夜の開始を伝えた。ここからはお坊さんの独壇場だ。独特の節をつけた経を読み上げ始めた。仏教に詳しくない俺はすべてナ行で構成されているように聞こえた。
焼香も始まって、次々に順番が回ってくるなかで俺は間違えないようにちゃんと観察していた。多くの人は焼香の途中もハンカチを持って、鼻と口を押さえている。赤くなった鼻を見せたくないのだろうか。彼らはハンカチをたまに目にやって、涙をぬぐっていた。
俺はだらしなく伸ばしていた前髪に初めて感謝した。泣いていない目を隠すことができるからだ。
焼香の順番が回ってきて、前に立った時も俺はずっと前髪で垂らして、両目を隠していた。
人の嗚咽に耳塞いでいるうちにお経は終わり、坊主はそそくさと退場した。俺らも流れるように次の部屋に案内される。テーブルの上に大皿に料理が並んでいる。椅子は置いていないので、立食スタイルのようだ。俺らは四人で固まって隅っこにいく。
周りの人もあまり食事をとらないみたいだ。だけど取らないこともまた無礼に当たるのか、小皿に少しの料理を載せて、箸でつついているだけの人が多く見受けられる。俺の母さんは遠くで、他の親たちとぼそぼそと会話をしていた。
二木がふらふらと大皿に乗せられた料理の方に行って、一人で食事をし始めた。料理の質は高かったようで、一向に戻る気配がない。それどころか食い尽くす勢いだった。
「あんなぁ。兄ちゃん」と子供の声がした。近くで小学生の低学年ぐらいの子供が、隣にいる高学年ぐらいの子どもに話しかけている。雄二と健三だ。10個ぐらい年の離れたあいつの弟達で、俺らもあいつの家に行ったときよく可愛がっていた。
「なに?ケン」
「兄ちゃんな。僕一位になった」
「知っているよ。運動会のかけっこでしょ。見てたよ」
「一位取ったらな。ほら、あのベルト買ってもらえるってな。約束だったでしょ。あれ、早く欲しいんだけど」
そういえば、死ぬ三日前ぐらいに約束したとあいつが言っていた。健三は日曜の朝にやっている特撮番組にはまっていて、その変身ベルトをずっと欲しがっていたそうだ。だけど母親が、そういうおもちゃを買ってあげなかった。それで。あいつは買ってあげようとしたらしい。けれどただ買うのではつまらないし、母親も嫌がるだろうから、お題目として「運動会のかけっこで一位を取ったら買ってあげる」ことにしたらしい。
健三はその日から毎朝かけっこの練習をして、運動会ではぶっちぎりの一位だった。
「買ってもらう前にな。いなくなったんだよ。ずるだよな。かあさんにどこ行ったかと訊いたら、すごい遠いとこに行ったって言われてな。いつ帰ってくるんかな」
健三は雄二に詰め寄るように訊いた。雄二は答えに窮して黙ってしまう。話を聞いていた翔は、二人に近づいて健三の頭を優しくなでた。
「あの変身ベルトなら俺が買ってやるよ」
健三は困ったような顔をして「二個はいらないよ」と返した。
「じゃあ、俺のだけもらえばいいだろ。すぐに買ってやるから」
「えー。翔兄ちゃんからはもらえないよ。だって約束したし。約束はな。こっちからも破ったらいけないんだよ」
翔は健三の頭に手を置いたまま、動けずにいた。俺は翔たちにまざろうとゆっくりと近づいた。そのとき、堰を切ったように雄二が健三に詰め寄って言葉を投げるように言う。
「死んだら帰ってこないんだ。もう買ってもらえなければ、遊んでもくれない。遠くになんて行ってない。すぐそこで横になって死んでんだ。いいから、ケンは、翔兄ちゃんにベルト買ってもらえよ」
翔は思わずその手を放し、宙に漂わせた。俺の足も止まり、あたりの視線もこの二人に集まった。
「嘘だ。だって約束したから。帰ってこないと買ってもらえないから、帰ってくるもん」
そう言って健三は駄々をこねるように泣き出した。
「意味わかんないよ」と雄二は健三を突き飛ばす。健三は転がって、俺の足元に来た。急いであいつの母親が来て、健三を抱きかかえた。叱るように「何やってるの」と雄二に言う
「だって、ケンが帰ってくるとかいうから。死んだらもう会えないのに」
母親の顔から血の気が引いたのが見えた。どんどん白くなっていく。これが現実を予期しない方向から突き付けられたときの顔なのだろう。
「嘘だよ。だって遠いとこに行っただけなんでしょ」
「隣の部屋だよ。全然遠くない。見て来いよ。顔を。そしてちゃんとお別れの挨拶をして来いよ。なんならその顔に向かって、ベルト買ってってねだればいいじゃん」
雄二は母親から健三を引きはがし、出口の方に突き飛ばした。健三は立ち上がって、走ってこの部屋から出た。バタンという扉の音の後、母親の顔は扉と雄二を見比べるように二、三回往復する。
「なんてことを言うの」と唇を震わせながら、震えた声を出した。
「かあさんこそ。なんてことを言うんだ。全然遠くないよ。かあさんからすれば遠いのかもしれないけれど。俺からすれば隣の部屋ぐらいいつでもいけるよ。嘘ついてまで、遠ざけないでよ」
母親は雄二の言葉が聞こえなかったのか、「なんてことを言うの。死んだなんてケンにはまだ早いでしょ」とつぶやく。
母親が一向に動かないので、俺は翔に目で合図を送る。翔は俺の意図を読み取ってうなずいた。フリーズした空気の中、二人で健三を追いかけに行った。
廊下には姿がなかった。俺らは隣のあいつが置かれている部屋に入る。しかしそこにも誰もいなかった。棺桶の裏に隠れている可能性もあるので、俺らは奥に進んだ。棺桶に近づくと、ヒヤッとした空気を感じる。あいつを腐らせないためだろう。棺桶の裏に回ってみても健三の姿はなかった。
「ここには来てないみたいだね」
「そうだな」
俺らはここで待つことにした。健三を見つけるよりも、健三が一人でここに来てしまうことのほうが問題だからだ。棺桶の横に膝を抱えて座っていると、翔があいつの顔を覗き込むのが見えた。
「焼香の時はよく見れなかったけど、よく見るとちゃんと死んでいるんだな」
翔は人差し指の腹であいつの顔を触った。ここからではよく見えないが、おそらく弾力もなく、肉に沈んだに違いない。翔はその手を放して言った。
「よくドラマとかで今にも起き上がりそうな顔っていうだろ。でも、本当によく見ると、これは起き上がりそうにもないよな。それぐらいちゃんと死んでいるんだな」
「ちゃんと死んでないほうが怖いよ。ゾンビみたいなことでしょ」
棺桶のふちに腰を掛けた翔は、死体に背を向けて遺影の方を見た。遺影の中ではあいつが一人で笑っていた。五人で撮った写真をあいつ一人だけトリミングしたものだ。あの横では俺らが笑っていたはず。
「これ、夏祭りの時のだな。結構新しいやつだ。楽しかったよな」
「かもな」
体育座りをやめて、足を前に伸ばした。手を後ろに持って行って体を支える。きれいに整列しているパイプいすを見ていると、焼香をした後振り返ったときを思い出した。黒い服が並んでいてありの行列みたいだった。列をなして獲物に群がって回収していくように、順番に焼香をあげていた。その一員になっていた俺はあいつから何かを回収してしまったのだろうか。
「俺さ、てっきり、ドッキリだと思ったよ」
翔はそういったあと、「てっきりとドッキリって韻をふんでいるな」と笑った。
「こんな大掛かりなドッキリがあるわけないよ。テレビでもないし」
「まぁな。そうなんだけど。それでもこれは騙されているなと思ったんだ。ちなみに直己は仕掛け人だと思った。全然悲しんでなかったし」
「翔だって悲しんでなかったよ」
一昨日の朝、ホームルーム活動の前に先生に俺ら四人だけ廊下に呼ばれた。ついていくと、沈んだ面持ちで「本当の話なんだけど」と前置きされた。そしてあいつが死んだと言われた。「殺された」だったかもしれない。いずれにせよ、もうこの世にはいないことを知った。死を告げられた時、夏凪と二木はすぐに泣いてしまった。翔はそのとき動揺していたが平然としているように見えた。
「受け入れらなかった。だからこれはドッキリだと思って、あのプラカードとテッテレーという音を待っていたんだ。でもこれは死体だよな。ドッキリにしてはやり過ぎだよな」
翔は俺と死体に背を向けて遺影を見ている。死体は目をつぶっているが上を見て、俺は扉の方を見ていた。
「直己。これはドッキリなんだよな」
「ああ、これはふざけたドッキリだよ。もう死んだと見せかけて、本当に死んでいる。そういう新しいタイプのドッキリだ」
俺は口で「てってれー」と言った。
健三は依然として現れず、二人とあいつでこの広い空間にいた。後ろから、殺した声で、泣いているのが聞こえてきた。その小さな声だけがこの部屋で反響している。どうしてみんなそうやって泣くのだろう。どうやったらそんな風に悲しいと思えるのだろう。
ずっと俺らは仲良しだった。皆でいつも遊んでいた。最初は三人で、小学校に入って翔と二木が混ざって五人になった。そして一人が死んで、今は四人。ただそれだけのことだ。
小学校の卒業式は皆で笑っていた。中学校のでもだれも悲しまなかった。すこし寂しいねと言いあって高校に入った。俺は初めてみんなの涙を見ている。本気の悲しんでいる様子を目の当たりにしている。いつからこんなにずれてしまったのだろう。
振り返って翔を見ると、肩が震えていた。呼吸に合わせて震えているみたいだ。俺も試しに、真似して肩を動かしてみる。ぴくっぴくっと上下に震わせてみても、到底似つかないものだった。俺のはまるでAEDをうたれたときみたいになる。どうやったら、翔の打ち上げられた魚みたいに震わすことができるのだろう。
がたっという小さな音がした。何かが開く音だ。翔はすぐに振り返って棺桶を凝視した。なかで目をつぶっている死体の顔を見つめる。翔と目が合って、俺はすぐに逃れるようにそらした。
視線の逃げ先に、扉の入り口を少し開けて覗き込んでいる健三がいた。
「入って来いよ」と俺は言う。健三は恐る恐るといったふうに、扉をさらに開けた。部屋の広さと寒さに驚いたようすで、身を縮こまらせている。真ん中の通路を歩き、棺桶の前まで来た。
「最後のあいさつ。もう会えないから。しといたほうがいいよ」
健三は焼香台を上がり、棺桶を挟んで翔の前に立った。翔は無表情のまま一歩さがる。そして段に足をぶつけて、体勢を崩していた。健三はじとっと翔のことを見たあと、棺桶の中を見た。
「ああ、寝てる。こんな場所で寝てる」
「それ、もう起きないんだよ。これからずっと寝たままなんだ」
「なんで?約束は?」
「死んだら約束は無効だよ。破ったことにはならないんだよ」
「ずるい」
「だからベルトは翔に買ってもらいなよ」
俺よりは翔からのほうがいいだろう。翔は何も考えてないのか、空洞のような目で健三を見ていた。涙は引っ込んでいるようだったが、肩の震えはのこっていて呼吸に合わせて上下に震えていた。
「本当にもう起きないの?」
「起きない」
俺はきっぱりと健三に告げる。
「じゃあ、ずっと寝て過ごすのな。もう話せもしないのな」
健三はこのことを深く考えていないようだった。小さいころのほうが残酷なことをよくできるものだ。虫や小動物を殺すことにためらいがない。小学生ではあまり死というイメージが少ないのだろう。だから悲しくもない。
健三はあいつの死顔を見て、「遠いなぁ」とつぶやいた。
「そうだね。遠いかもね」
距離が遠い。あいつとの距離があり過ぎる。他の人とも遠くかんじる。だけど健三との距離はどことなく近い気がした。
健三のつぶやきの後、あいつの母親が扉を開けた。ようやく追いかけてきたのだろう。俺ら三人を見つけると「早く戻ってきなさい」と言った。
この部屋の中には入ろうとしないで、手招きだけをされる。健三はあいつから離れ、焼香台から降りた。来る時より見違えるようにしっかりとした足取りで、母親のもとに向かう。一歩も動かない母親のもとにたどり着くと、母親はその姿をしっかりと抱きとめた。
俺と翔もこの部屋から出ることにして、二人の横を素通りした。その横を通るとき、あいつのそばよりも寒気がした。




