~23~
翌日、アラームで起きてからもぼーっとしていた。ベッドに腰かけて床をただ見ていた。そこにはカーペットと、男らしく雑に放置させたプリントしかなくても、俺はぼやぁーとそれを見ていた。朝食を食べる元気もなかった。学校に行かないといけない時間になり、ロボットのように身支度を整える。カバンは夏凪の家に置いたままだ。とりあえず今日は学校の指定でないカバンでも構わないだろう。どうせ大体の教科書は机の中にある。
気付いたら準備がそろって俺は制服を着ていた。俺は部屋を出て、階段を下りる。そのまま母親に挨拶もしないで家を出た。
曇り空だった。青い部分も一つもないような、今にも雨が降りそうなぐらいどんよりとした天気だ。俺は通学路を歩き始める。湿度も高く、もう何もかもが不快だった。無意識的に学校に向かう。その間にコンビニによって今日の昼飯を買う。コンビニに出たとき俺は何を買ったのか思い出せなかった。でも、それもどうでもいいことだ。俺はカバンにコンビニ袋を突っ込む。がさがさとコンビニ袋が音を立てていた。カバンを無理やり閉めて、また学校に向かって歩きだす。校門を抜けて、玄関を引いて開け、校舎に入った。
教室に入ると俺はまず黒板の前に立って見渡し、夏凪の姿を探していた。でも夏凪はいなかった。今日も学校に来るつもりはないのだろう。でもそれはストーカーにおびえているのではない。俺に会いたくないからに決まっている。俺と夏凪の席は前後だからどうしても会話しないといけなくなる時がある。それが嫌なのだろう。そうに違いない。
教室には翔の姿もなかった。二木はいるが、俺が通り過ぎても相変わらず俺を無視するかのように目もくれなかった。
一時間目が始まった。結局翔と夏凪は来なかった。授業なんて頭に入ってこない。黒板に書かれる文字が数式なのか英語なのかもわからない。ただその文字を眺めていた。
気が付くといつのまにか四時間目も終わっていた。先生が「きょうはここまで」と言って教室から出て行く。俺は机に出してあった国語の教科書を机の中に突っ込む。カバンを開けて手を入れると、薄いビニールの感触があったのでそれを引っ張りコンビニ袋取り出した。そして俺は立ちあがって、コンビニの袋を片手に持って屋上に向かった。
屋上へ続く扉に鍵を刺して半回転させる。カチッと音が鳴ったので引き抜いて、ドアノブをひねろうとした。だがドアノブは動かなかった。力を入れてもガッと音がするだけ、ロックされているみたいだ。
前にもこういうことがあった。最初から空いていたのに、俺はまたカギをかけてしまったのだろうか。でもそうすると、この向こうに翔か夏凪が居るのかもしれない。二木は俺が出るときに教室に残っていたのでありえないだろう。俺は扉の前で立ち止まる。このまま入ってもいいのだろうか。鍵をもう一回刺すが、回す勇気が出なかった。そこにいるのは誰だろう。
でも、行くしかないのだと思う。
俺は鍵を開けてからドアノブを回し、扉を開けた。屋上は少し肌寒かった。冷気が踊り場に流れ込んでくる。今日は一面の曇り空で日が差してないせいだろう。俺は少し上着を着直してから足を踏み入れる。数歩前に進んであたりを見てみた。でも誰も見当たらなかった。屋上は閑散としていてむき出しのコンクリートがあるだけ。フェンス越しに白い空があった。よく見るときれいな白ではない。黒く混じっていて灰色になっていた。
もしかするとだれかが鍵をかけ忘れたのかもしれない。それはまたルール違反にあたる。他の人がたまたま開いているを見つけて入ってきてしまうことがあり得るからだ。一番最後にここを出たのは昨日の夏凪だ。
「直己か」と声が後ろからした。振り向くと、翔が上にいた。扉の上のある踊り場の屋根にあたるところに立っていた。扉の横に梯子があるのでそれを使ったのだろう。なぜ上に登ったのかはわからない。上に何かあると言うわけでもない。ただ一番高いだけだ。そして別にルール違反でもない。
「翔」と俺は呼んだ。すると、「おう」と答えて翔は飛び降りた。トスっと小さな音を鳴らして着地する。
「翔」とまた俺は言った。
「なんだ?」。
翔は扉の横に座って、俺の方を見た。俺は立ったまま翔に言った。
「翔」
「なんだよ」と翔は笑う。
俺と翔は少しの間見つめあった。お互い次の言葉がわかっているみたいだ。でもそれを言ってしまったらもう引き返せなくなる。それも俺はわかっていた。
でもどうせ言わなければならない。俺は劇の登場人物みたいだと思った。翔も同じ劇に出演している。もう終わりも、なにがあったかもお互い分かっているのに、茶番を続けなければならない。
俺は目をつぶって翔に告げた。
「お前なんだろ」
翔は少しだけ寂しそうに笑って「なんのことだ?」と言った。
夏凪の下駄箱にあった殺人予告。あれには砂がついていた。それは靴の下にあったということだ。下駄箱に置いただけでは砂はつかない。靴の裏か下駄箱の下に置かないと砂が付くことがない。
そして予告を出すときにわざわざ靴の下に置いたわけではないだろう。夏凪が最初、靴の上にあるのを気づかなかったのだろう。普通に靴を取って、下駄箱の中に落ちた予告の上に上履きを置いた。
夏凪がどうして気づかなかったか。それは携帯を落としたから。大事な携帯に気を取られ、紙が入っていることに気づかなかった。
夏凪の携帯は画面が真っ白になっていた。だが翔は金曜の朝に画面が半分だけ黒くなっているだけだと言っていた。それはつまり翔も落としたからだろう。翔が殺人予告を出したとき、俺が携帯を夏凪に渡せず下駄箱に入れたことを知らなかった。だから落としてしまった。そのとき画面を見たら半分だけ黒くなっていた。その後、殺人予告を出してから、携帯をよりかけるように置いたのだろう。夏凪が開けたときにまた落とすように。そう考えればすべてつじつまが合う。
その殺人予告を入れた日、先に帰ったはずの翔が車に乗って俺の後ろから来た。普通ならば前から来るはずだ。後ろと言うことは俺が出てから、翔は学校に車で迎えに来てもらったのだろう。先に帰ったはずの翔がいなかったら殺人予告の時のアリバイがなく疑われるからだ。だが、夏凪が予告を発見するのはそれから二日後の土曜になってしまう。それにより翔が金曜に携帯が壊れたことを知っているのはおかしくなる。
「お前がやったんだろ」
ストーカーについては渡西を利用したのだろう。あいつは茶色いコートを着ていた。それを利用した。渡西に入れ知恵をして夏凪に遠巻きから警護をさせる。一回でもその間に翔自身がストーカーのふりをしてサングラスにマスクのいでたちで前に現れれば渡西をストーカーと思い込むようになる。
渡西と翔が面識がある証拠はある。渡西は俺のアリバイがあると言っていたからだ。俺はアリバイの話を翔にしかしていない。つまり渡西の情報源と言うのは翔だ。
「俺にはアリバイがある」と翔は言った。
「そんなのどうでもいい」
「マジか」
殺人予告は新聞の切り抜きで作られたのに、付け足すように定規で書いた文字もあった。それを見たとき俺はついツッコミをいれていた。いつもの翔のボケみたいに見えた。
「動機もない」
「それもどうでもいい」
「そんな追い詰め方あるか?」
翔はまた寂しく笑った。それは道化師のようだった。おどけた笑いのようにも見えた。立ち上がると、まっすぐ俺の前に立つ。俺は翔の目を見て、翔も俺の目を見る。また俺らは見つめあっていた。
「そうかぁ」
「そうだよ」
「ふぅー。そうかぁ」と翔は長い息を吐いてから、また同じことを言った。俺らは長いこと見つめあっていた。一瞬にも思えるような、逆に永遠とも思えるような沈黙が流れた。
風が正面から吹いて、俺は思わず目をつぶる。目を開けたとき、翔の左目からゆっくりと涙が落ち始めているのが見えた。つーっと一粒の涙が頬に流れる。右からもこぼれた。頬を伝う涙は顎から離れ、ぽたぽたと屋上を濡らしていく。
「そうだ。俺だ」と翔は言った。
翔はまじめな顔をしている。まるで泣いていないかのように澄ましている。でも涙は留まることを知らなかった。ぽたぽた、ぽたぽたとコンクリートに落ちて染みを作る。コンクリートは涙で濡らされた部分を黒くしていた。
「で、俺をどうするんだ?」
翔はすまし顔のまま訊いてきた。
「どうもしないよ。そんな資格、俺にはないから」
「そうか」
翔の顔はだんだん歪んでいった。目をぎゅっとつぶって、唇をかんでいる。だんだん涙の粒も大きくなりボロボロと涙が落ちて、手で拭っている。必死にこすって涙を拭う。何回も何回も繰り返して拭っている。鼻水も出てきたようで、涙を拭う手で鼻も拭いていた。
「じゃあ、俺もう」と言って翔は止まった。
「翔」と呼びかける。それに対した意味はない。だが翔はそれにこたえるように、
「なおきぃ」と俺の名を呼ぶ。顔が赤くなっていた。唇をわなわなと震わせてかすれながらに俺の名前を呼んでくる。俺はさらにどう答えたらいいのかわからなかった。翔は肩で息をするように震わせている。しゃっくりのように息を吸うときや、鼻をすするときは一段と肩を上下にさせていた。そして涙声で言ってくる。
「じゃ、じゃあ俺もう、行くから。もう」
「うん」
「もう会わないから。もう来ないから。もう一生。いられないから。いたくないから。だって。だって、もう無理だから。直己ぃ。なおきぃい」
「ごめん」
「なおきぃ。もう、俺、どうしたらよかったのか」
「翔」
俺は翔に何か言えるだろうか。これで最後だ。翔とこれでもう二度と会うこともないだろう。翔が会うことはないと言った、おそらくどっかに転校でもするのだろう。ここに居られないと思ったのだろう。俺は当たり前のように警察に言うつもりはない。俺にそんな資格はない。そして翔もおそらく警察に行くことはないだろう。
「じゃあ、じゃあな。直己ぃ」と翔は言った。
「ああ。じゃあな」
翔は俺に背を向けて、歩き始めた。まだひどく泣いているみたいだ。猫背になって、腕で両目を押さえている。肩が震えていた。大きいけれど寂しそうな背中だった。俺のその光景を目に焼き付けるようにじっと見ていた。
翔はそのまま屋上の扉まで歩いて、扉をひいて、その向こうに消えていった。
バタンッと扉が閉まる音がした。
もう独りだ。俺は独りだ。二木に無視されて、夏凪に悲しんでないことがばれて、翔は今去って行った、そしてもう二度と会うことはない。これから先俺はずっと独りだ。もう皆と話すことはないだろう。楽しく談笑なんかできるはずがない。その時に俺はいったい何を話せばいいのか。あいつが死んだ時から俺らはもうこうなる運命だったのだろう。親友が一人死んだら、今まで通りにいられない。それは当たり前のことだ。
ゆっくりと俺は屋上をフェンスに向かって歩き始めた。ジャリ、ジャリと風化したコンクリートがこすれる音が聞こえた。空は限りない曇天だ。冷えた空気が風となって俺の身体を撫でる。
もう俺の親友はいない。皆。皆。みんな。親は俺が子供だから助けてくれるだけ。今は距離を感じている。本当に味方をしてくれる人は、俺のことを想ってくれる人は、もういない。
どうしてこうなってしまったのだろう。二木は俺のことを嫌いと言った。ひどい人間だとも言われた。そうか、結局おれがひどい人間だからこうなったのか。夏凪も俺が悲しんでいないから。すべて俺が悲しんでいないから。悲しめなかったから。悲しむ演技すら上手にできなかったから。
フェンスまでたどり着いて、俺はフェンスに手をかけた。ひんやりとした感触が手に伝わってきた。それがきっかけだった。
俺の目から涙がでてきた。ようやく涙がでてきた。あいつの通夜でも告別式でも出なかったのに。屋上でも誰かの涙を見たときにも出なかったのに、今更になって涙がでてきた。自分一人の孤独に耐え切れなくて涙が勝手に出てきやがった。
「つあぁぁあぁぁぁ」と声が漏れる。
フェンスを握る手に力がこもって、ミシミシとしなる音が聞こえた。心ももうミシミシと壊れていく音がしている。心が締め付けられて、俺はその痛み耐え切れなかった。一人の恐怖と不安と寂しさが一斉に押し寄せて俺の全身にまとわりついてくる。
「あぁぁぁぁぁああぁぁぁぁあぁ」
涙がとめどなく出てくる。どうしてこんなに悲しいんだろう。もうすべてが悲しい。俺は最低の人間だ。自分勝手で自己中心的すぎる。
「うぁぁぁぁああぁぁぁぁぁぁあぁぁあああぁぁぁ」
叫ぶように泣いた。
「ああっ。あぁぁあ。うあぁぁああぁぁあ」
力が抜けて、俺は膝から落ちた。コンクリートとぶつかって鈍痛が走る。そのままフェンスに頭をぶつけた。ガィンと音が鳴ったが俺は気にならなかった。絶望のような黒い感情が俺に襲い掛かる。とめどなく流れる涙がコンクリートを濡らした。俺の涙だ。夏凪でも翔でも二木でもない俺の目からあふれる涙だ。あのときもいつかも出なかった性根の腐った俺の涙。
「つっ。くうぅっ。ああっ」
悲しみが俺の心を支配する。耐えがたい空虚感と絶望に涙以外の抵抗ができない。その涙も慰めにもならない。
「ごめん。ごめん。ごめんんさい。なんで、ほんと、俺は、最低な人なんだぁ」
ずりずりとフェンスをこすりながら頭が落ちる。俺は自分の身体を自分の手で抱いた。強く抱くと、震えているのが分かった。俺は前にこうやって震えている夏凪を屋上で見た。あの時、俺はそれを見下ろしていた。夏凪本当にごめん。俺はこれに耐えられそうにない。
「ああぁぁあああぁぁああぁぁぁっぁあぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁあああああぁぁぁあぁ」
俺は体を丸めた。自分の世界に閉じこもるように、独りきりで生きるため周りの世界からの干渉を拒むように。




