静音とも話し合う
耕作のオフィス。
多くの社員がパソコンと向き合い、あるいは電話で連絡をとったりしている。
良太はこの日、やはりモニターと睨み合っていた耕作へ、時折り目をやっていた。
耕作が小休止すると、声をかける。
「今日のおまえの顔はなんなんだ」
「そんなに酷いか」
容赦のない友人の言葉に、耕作は憮然とした口調で答えた。
「酷いというか面白い。まさに七色の変化だな」
それはまあ、さぞ面白いだろうな。
と、耕作も心中同意する。
耕作は仕事中も、昨日起きた事柄について、考え続けていたのだ。
その間、様々に顔色を変えている。
ミーコのことで悩み、解決策を考えている時は、青い顔をしていた。
神や悪魔に対し、怒りを覚えた時は、赤い顔をしている。
「で、どうなったんだ。河原崎さんとは」
「どうというと?」
良太の問いかけに、耕作は質問を返した。
声にぎこちなさがあったのは、彼も自覚している。
「昨日、河原崎さんが事故にあったらしいが。その時、おまえが疾風のごとく現れて河原崎さんを救い、その後かっさらって行ったと、もっぱらの噂だぞ」
最後だけ微妙に違う。
抗議しつつ耕作は、今度は静音についても考えを巡らしていった。
食事中の彼女との会話を思いだせば、顔はにやけ、赤くなる。
昨夜のことを彼女に説明しなければならないと考えると、青くなる。
顔色は、またしても様々に変化していた。
そんな耕作を、良太は黙って見ていたが、しばらくすると手を叩き、分厚い唇を開いた。
「まあ何があったのかは分からんが、俺にとってはめでたいことだな」
「なんでおまえがめでたいんだ」
「河原崎さんと上手くいけば、おまえは将来、役員にもなれるだろ。そうなれば親友の俺も、きっと引き上げてくれる。そうだろ?」
良太は片目を閉じ、不気味としか表現しようのないウインクを見せた。
耕作は呆れ、口をポカンと開ける。
それから後、肩をすくめ、友人に返答した。
「その予想は、最初の段階で躓くかもしれないな」
――――――
昼休み。
耕作は静音から、昨日と同じ洋食店を待ち合わせの場所に指定されていた。
先に席を取り、彼女を待つ。
耕作は周囲の光景を眺めつつ、
「やはりここは、彼女のお気に入りの場所なんだろうな」
と、考えていた。
店は耕作のオフィスからはほど近い、専門店ばかりが入っているビルの最上階にあった。
窓からの眺めは、遮る物もなく遠くまで見渡せる。
陽光が建築群のガラスや壁面に反射し、煌めいていた。
見ているだけでも、暖かさを感じられる。
その景観の素晴らしさは、通常であれば、心に落ち着きをもたらしてくれるだろう。
だが残念ながら、耕作の心境は穏やかとは言い難かった。
昨日に比べれば、身体に硬さはない。
しかし胃が痛くなるような不安感は、比ではなかった。
なにしろ昨夜に続いて、またしても修羅場を迎えようとしているのである。
これから静音には、自室にミーコ、つまり少女がいたことの説明をしなければならない。
それも昨夜告げた、言い訳の整合性をつけるように、である。
今に至っても上手い解決策が浮かんでいなかったこともあり、耕作の気分は沈みっぱなしであった。
耕作に遅れること五分。
静音が到着する。
彼女は黒のパンツスーツを隙なく着こなし、颯爽とした姿を見せていた。
もっとも表情は、昨日に比べ、硬い。
目には剣呑な光があり、周囲に威圧感すら与えていた。
静音は席に着くと、耕作を待たせたことをまず謝罪した。
ウェイターに簡単な注文を済ますと、柔らかそうな唇を開き、早くも話を切り出す。
「それで吉良さん、昨夜のことについてですけど」
「はい」
「吉良さんが親族の方々とどの程度不仲なのかは、私も存じております。だから昨夜、急に和解しようとして、しかも女の子を訪問させるというのは……」
そこまで話すと、口ごもってしまう。
うつむき、テーブルの上で細く美しい両手を重ね合わせた。
耕作としては、返す言葉がない。
まさか洗いざらい真実を話す、という訳にもいかないのだ。
猫が擬人化したなどと、信じてもらえるとは思えない。
冗談か、さもなければ耕作が狂ったと考えるのが普通だろう。
それに信じてもらえたとしても、静音から周囲へと話が広がれば、ミーコの存在が世に知られてしまう。
静音を信用しない訳ではないが、今回の事態について知る者の数は、より少ないほうが良いと思われた。
何も話せない。
従って今、耕作にできるのは、
「すみません」
と頭を下げ、ただ謝ることだけであった。
「今回の件については、まだ話せません。自分に都合の良い話をしているのは分かっています。でもしばらくの間、待っていてほしいんです。全てが解決したら、必ずお話します。何があったのかを」
若々しい声に苦渋の色をにじませて、耕作は告げる。
怒りにまかせ引っ叩かれることも、彼は覚悟していた。
しかし、その予想は外れる。
「私のこと、信用して頂けないのでしょうか」
静音の声音には、怒りよりも悲しみが込められていた。
耕作は驚き、顔を上げる。
彼を真摯に見つめる、静音の黒く大きな瞳がそこにあった。
「何があったのですか。今の耕作さんは、とても苦しそうに見えます。私は貴方の力になりたい。それに貴方の問題は、私にはもう、他人事ではないんです」
ああ、この人は素晴らしい人だ。
と、耕作は感動していた。
同時に、やはりこの人を巻き込む訳にはいかない、とも思っている。
静音は被害者なのだ。
彼女が神か悪魔によって、自分の彼女となるべく選ばれたのだとすると、それは人生を操作されたということになる。
仮に今回の事態とは無関係だったとしても、本人に非のないところで、迷惑をかけていることになる。
耕作はそう考えた。
そして彼にはもう一つ、静音を巻き込みたくない理由があった。
なけなしの勇気を振り絞り、テーブル上で静音の手に自分の掌を重ね、告げる。
「ありがとうございます。でも、俺が自分で解決します。貴女の気持ちに応える資格があるかのどうか。きっとこれで分かるはずです」
静音から愛情を向けられるのは、耕作も嬉しかった。
彼自身、彼女に対しては少なからず好意を持っている。
しかしこの先、ミーコが人間であり続けた時に、それでも尚、静音の気持ちに応えられるだろうか。
耕作はまだ、判断がつかなかった。
静音の愛情を受け入れ、協力を求めた挙句、最後に彼女を裏切ることになるかもしれない。
そんな事態は、絶対に避けねばならない。
耕作はそう思っていたのだ。
耕作の言葉を聞いた静音は、依然として表情を曇らせていた。
しかし数瞬の後。
「分かりました。お待ちしております」
目尻にわずかに涙を浮かべつつ、それでもほがらかな笑顔で返答した。
耕作は安堵した。
とは言え結局のところ、問題を先送りしただけである。
静音をいつまでも待たせておくわけにはいかない、と彼は考えた。
そのためには……。
「でも一つだけ、お願いをしてもいいでしょうか?」
考えに沈もうとした耕作の手を握り返し、静音は告げた。
彼女の顔を見直した時。
耕作は、違和感を感じていた。
静音の浮かべた笑みが、先のものとは異なり、どこか酷薄な、肉食獣を思わせるものであったからだ。
――――――
耕作のアパートへと向かう坂は、最寄りの駅から始まり、住宅街を一本道に突きぬけている。
今夜もその坂を登りながら、耕作は静音との会話を思い出していた。
「来週金曜の夜、お時間を頂けますか?」
それが静音の願いであった。
「その程度のことなら、いくらでも」
と、耕作は即答した。
しかし来週の金曜日となると、十日も間が開いている。
それに気づいた耕作は、その日を指定した理由を尋ねた。
「準備がありますので」
返答を聞き、耕作は考える。
デートに誘われているのは分かった。
しかし十日もかかる準備とはなんであろうか。
盛大に歓待されても恐縮するし、その日までに事態が解決しているとは限らない。
場が白けなければいいのだが、と。
坂を上り続けること、約十分。
耕作はアパートに到着する。
気持ちを切り替えるため、一息吸ってから、ドアを開けた。
「ミーコ、帰っ……」
「コーサク!」
耕作が挨拶を終えるよりも早く。
ミーコが飛びかかるような勢いで、彼に抱き付いた。
彼女は頭に、「万が一、人の目についても大丈夫なように」と、耕作に勧められた帽子を被っていたのだが、勢いのあまり、それも吹き飛ばしそうになっている。
ミーコは耕作を玄関に引き倒すと、全身の匂いを嗅ぎまわり、果ては胸板に首筋をこすりつけ続けていた。
「ご馳走様でした」
二人は手を合わせ、挨拶をして食事を終える。
耕作はキッチンで後片付けを始めた。
ミーコはベッドの上で横になり、満足そうに膝を抱え、丸くなっている。
数十秒後。
ミーコは何かを思い出したように顔を上げた。
耕作に視線を向けると、起き上がって歩きだす。
そして彼の後ろから白い手をまわし、抱きついた。
「コーサク……」
「なんだいミーコ」
耕作は片付けの手を休めずに、穏やかな声で答える。
「そろそろ、する?」
「なにを?」
「交尾」
耕作は食器を手から滑らせ、取り落した。
高い音がキッチンに響き渡る。
耕作は慌てて、ミーコに向き直った。
しゃがみ込み、目線をミーコよりも下にする。
そして乾き、狼狽しきった声を出した。
「い、い、い、いきなり何を言いだすんだ」
「本気だよ?」
そう言って、ミーコは耕作を見つめる。
黄色い右目と青い左目は、既に熱情で潤んでいた。
視線には真剣な光があり、耕作を射抜いてくる。
「コーサクが望むなら、いいよ?」
バカなことを。
と言いかけて、耕作は息を飲む。
彼の目はミーコの整った顔に向けられていた。
宝石のような光を放つ瞳、白い肌に映える赤い唇。
それは、絶句するほどの美しさだった。
もともと完璧だったはずの美貌が、さらに輝きを増している。
その事実が、耕作を驚かせた。
視線は続いて、ミーコの細い首筋から、トレーナーをわずかに押し上げている胸元に向けられる。
鼻腔には、彼女の甘い、雄の本能を刺激する香りが飛び込んで来た。
耕作は酩酊する。
本能に身を任せ、ミーコの頬を両手で包み込んだ。
唇を、ミーコのそれと重ねようとする。
ミーコは目を閉じ、歓喜の瞬間が訪れるのを待った。
しかし両者の唇が接するまで間数髪というところで、耕作は動きを止める。
身体をミーコから引き離した。
両手はミーコの頬から、肩へと置き換えられる。
そして彼は、言葉を紡ぎ出す。
「ミーコ、ありがとう。でも今は違う、その時じゃないんだ」
「コーサク……」
ミーコの瞳と声色は、失望の暗い色で染まっていた。
彼女の表情を見つめながら、耕作は考える。
ミーコは必ず、幸せにする。
彼女を拾った時、胸に刻んだこの誓いは、必ず守ってみせる。
ミーコと結ばれるのならば、彼女を人間として、真っ当な恋人として扱い、幸せにしなければならない。
彼女の身体をむさぼった挙句、猫に戻して知らんぷり、などとそんな非道な真似はできるはずもないし、考えたくもない。
ミーコが猫に戻るのか、人間で居続けるのか、はっきりするまでは。
彼女が幸福になる、その道筋を見つけられるまでは。
結ばれる訳にはいかない。
それが耕作の、今の思いだった。
「ミーコは必ず幸せにするよ。信じてくれるかな」
耕作は諭すように、しかし力強く告げる。
ミーコは彼の、決意の込められた、少年のように純粋な瞳を見つめ返し、
「うん」
と、頷いた。
彼女には、今の耕作の言葉を疑うという選択肢は、ありえなかったのだ。
耕作は思う。
時間は少ない、と。
静音のこともある。
それにミーコの求愛を断り続けられる、自信もなかった。