愛に道理は通じない 二
「コーサク……」
ミーコは極上の、満開に咲いた花のような笑顔を浮かべた。
両目からは涙があふれ、頬だけでなく顔中を濡らしていく。
耕作が、やっと言ってくれた。
愛していると言ってくれた。
その言葉によって彼女は今、胸がはち切れそうになるほどの喜びを感じていたのだ。
だがその喜びは、無情にも長続きはしなかった。
ジーリアが瘴気をも漂わせる声で、場の空気を切り裂いたのだ。
「そう、ですか。ですが耕作さん、その気持ちもすぐに消し去って差し上げます」
「誰がミーコを忘れるものか!」
「耕作さんが愛すべきなのは、愛して良いのは、私だけです。それが正しい、あるべき姿なんです」
ジーリアの言葉には一切の迷いがなかった。
実際、彼女は心の底から自分の考えを信じているのだろう。
他者からすると狂っているとしか思えない発言と愛情表現ではあったが。
ジーリアにとっては、まぎれもない真実であったのだ。
「だから本来あるべき姿のため……正義のために、耕作さんから化け猫への愛情を消して差し上げます。そして、それ以上の愛情を私に抱かせてみせます」
ジーリアは耕作の顔を掴み、強引に自分へ向き直らせた。
耕作の抵抗とミーコの悲鳴や絶叫を楽しむかのようにして、激しい接吻を繰り返す。
数分の後。
ジーリアはようやく満足したらしい。
耕作から口を放し、悪魔へ命令した。
「ベルゼブブ、こちらの話は終わったわ。化け猫から種を回収してくれる?」
「やっと終わりか。いい加減、見世物としてもくどくなりすぎていたな。天国の連中には脚本家の才能はないようだ」
ベルゼブブはうんざりしたような顔で語った。
ジーリアの、形のいい眉が怒りでゆがむ。
しかし彼女はすぐ、邪な笑みを浮かべた。
「退屈させたお詫びと言ってはなんだけど。化け猫から種を回収する際には、さっきと違って出来るだけ苦しめてもいいから」
「ほーう? 苦痛のあまり発狂するかもしれんぞ?」
「どうぞご自由に。処女の悲鳴は大好物なんでしょう?」
「その通りだ」
ベルゼブブは答え、ミーコに向き直った。
爬虫類を思わせる目に、無機質な光が宿る。
絶体絶命の状況に追い詰められながら。
ミーコは尚、怯まなかった。
殺気に満ちた眼差しを向け、拘束された身体を懸命に動かし、悪魔に立ち向かおうとする。
「よるな、このバカでかい蠅が! あの鳥公の糞尿にでもたかってろ!」
「やめろ! ミーコに近寄るな!」
ミーコの罵詈雑言と耕作の絶叫が、部屋中にこだました。
ベルゼブブは意に介した様子もなく、鼻歌すら歌いながらミーコへ手をかざす。
黒い影が、再び悪魔の手から放出された。
耕作が、あらん限りの大声を出した。
「やめろ! ミーコに触るな! ミーコに……俺のミーコに触るな!」
「コーサク……!」
耕作の、鬼気迫る制止の声も、悪魔には心地よい響きに聞こえていたかもしれない。
さらにミーコの抵抗も全くの無意味となっていた。
黒い影は、すでに彼女の身体にとりついていた。
影は瞬く間にミーコの全身を覆い尽くしていく。
そして彼女の視界が完全に闇で塞がれてしまった、その瞬間。
ミーコの身体中に激痛が走った。
先の言葉通り、ベルゼブブはミーコを苦しませたうえで種を回収するつもりなのだ。
ミーコの身体を襲った激痛は、常人であれば一秒でも耐えられないようなものだった。
長く鋭く、溶岩で炙られたように熱く焼けた針で、肉体を貫かれたような痛みだったのだ。
しかもそれが何十何百と、身体中を襲っていた。
苦痛に耐えきれず、ミーコも悲鳴を上げる。
夜の冷えた空気を、ミーコの高く美しく、そして胸を痛めざるを得ない響きを帯びた声が切り裂いていった。
すると、ほとんど間をおかずに。
ミーコの悲鳴をはるかに凌駕するほどの勢いと声量で。
耕作が怒声を上げた。
「やめろ! おまえら、殺してやる! 天使だろうが悪魔だろうが知ったことか! 絶対に殺してやる! この恨みは忘れない! 忘れるもんか! ミーコ、ミーコ、ミーコ……! 愛してる! 愛してるぞ!」
その叫びを、もし常人が聞いたとすれば。
間違いなく恐れおののき、耳をふさぎ地に伏して、ひたすら慈悲を請うたことだろう。
耕作の声音には、それほどの憎悪と怒りが込められていた。
耕作の有り得ないほどの激昂した声を聞き、全身を苦痛にさいなまれながら。
しかしミーコは、幸せだった。
耕作のあの叫声は、もはや錯乱しているとしか思えない。
温厚だった彼が我を失うほどに怒り狂い、明確な殺意を天使と悪魔に向けているのだ。
それはつまり。
自我を失うほどの、狂ってしまうほどの愛情を、ミーコに抱いていることの証でもある。
ミーコが人間になってからというもの、耕作は常に悩み、苦しんでいた。
そしてミーコも、耕作のつらそうな顔を見る度、悩んでいた。
もちろん、耕作を愛する気持ちは一度だって揺らいだことはない。
だが、だからこそ。
彼にとって、自分の存在は負担にしかなっていないのではないか。
いつか彼に見放されてしまうのではないか。
結局、飼い猫としか見てもらえないのではないか。
最後まで「愛している」とは言ってくれないのではないか。
その不安は時として霧のようにミーコの心を覆い、前途への道すら閉ざそうともしていたのだ。
しかし、耕作は自分を愛してくれていた。
狂ってしまうほどの情熱をもって。
最愛の人に、これほどまでに愛されたのだ。
これが幸せでなくて、なんであろうか。
ミーコはそう思い、全身が燃え上るほどの幸福を感じていた。
と、同時に。
彼をそこまで追い詰めた天使と悪魔には、尋常でない怒りと憎悪を抱いていた。
耕作を泣かせた。
耕作を苦しませた。
温厚な彼を狂わせ、殺意を抱くほどの怒りすら覚えさせたのだ。
そんな相手に対して、ミーコが容赦するはずもない。
彼女は今、五感の全てを埋め尽くしてもなお足りないほどの、激しい怒りを覚えていた。
天に至るほどの幸福と。
地の底に届くほどの憎悪を感じた、今。
ミーコの心は感情の爆発に耐えられなくなり、拡散する。
「なに!?」
異変に真っ先に気づいたのは、ベルゼブブだった。
ミーコを覆いつくし、黒い蓑虫のようになっていた影の塊に、ヒビが入ったのだ。
開いた隙間から光が漏れ出てくる。
光は瞬く間に強くなっていった。
爆発的な勢いで光量を増し、周囲を眩く染めていく。
ミーコを覆っていた影も次々に崩れ、吹き飛ばされていった。
影が消滅した後には、ミーコの姿が現れる。
彼女は未だ床に転がされたままであったが、その身体からは目を開けていられないほどの光が発せられていた。
しかもその光は、赤、橙、黄、緑、青、藍、紫と、七色を備えていた。
「まさか、三つ目の種か!」
ベルゼブブは舌打ちまじりの怒鳴り声をあげた。
「え?」
ジーリアも困惑し、思わず声を漏らしている。
しかし彼女は、三つ目の種が力を発揮する可能性については予想していた。
ミーコを極限まで追い詰めるのだ。
その結果、彼女が感情を爆発させれば当然おこりえる事態である。
だが天使として最大級の力を発揮できる今の自分なら、どんな問題にも対処できる。
そう思っていた。
しかし、今。
ジーリアは予想だにしていなかった事態の発生に驚き、そして恐怖していた。
「耕作さん!」
ジーリアが抱きしめ掌中に収めていたはずの耕作の身体が、七色の光を浴びた途端、薄れ始めたのだ。
色素が抜けていくかのように。
耕作の全身が、おぼろげなものとなっていく。
ジーリアが感じていた彼の重みも、次第に失われていった。
耕作が消えていく。
ジーリアはその事実に愕然とし、金切り声を上げた。
「ベルゼブブ、何をしている!? 早く種を回収しなさい!」
「やかましい! 言われるまでもない!」
ベルゼブブは咆えると共に、全身から黒い影を放出させた。
膨大な量の影は拡散して部屋を埋め尽くし、渦を巻く。
それらの影を、ベルゼブブは再び両手に取り込み、ミーコへ叩きつけた。
影は光ごとミーコを覆いつくすかに見えた。
だが。
「馬鹿な!」
ベルゼブブは驚愕する。
ミーコから放たれる光によって、影は瞬く間に吹き飛ばされてしまったのだ。
「がぁっ!」
ベルゼブブが苦悶の叫びをあげた。
そして、彼は見る。
ミーコへ向けていた両手が、七色の光によって削り取られていく様を。
先の影と同じように。
永劫の時を生き抜いてきたはずの身体が、熱湯をかけられた砂糖細工のように崩れていくのだ。
「おのれ……!」
その叫びを最後として。
ベルゼブブの姿は七色に埋もれ、消えてしまった。
光は爆発し拡散し、部屋の隅々までをも埋め尽くした。
情景は虹の国と化したかのように、七色だけに染められてしまっていた。
「……耕作さん?」
爆発的に広がった光ではあったが、消えるのはあっけないほどに一瞬だった。
文字通り、瞬く間に消え去ってしまったのだ。
七色に代わって静寂に支配された、部屋の中。
ジーリアの声だけが通っている。
「耕作さん?」
愛する男を探す、その声に。
答える者はいない。
ジーリアの目に映る光景は、光が爆発する以前のものとは異なっていた。
散乱する凶器、倒壊した家具などは変わっていない。
崩壊した窓などもそのままだ。
だが、大きく欠けてしまったものが三つあった。
それは耕作と、ミーコと、そしてベルゼブブの姿だ。
「耕作さん!?」
ジーリアは必死に呼びかけ、あたりを見回した。
しかしやはり、耕作たちの影も形も、部屋のどこにも見当たらなかった。
ジーリアの他にある人影と言えば、眠ったように横たわる静音の亡骸だけだ。
「耕作さん――!」
誰も答えない部屋の中で。
ジーリアは、いつまでも耕作の名を呼び続けていた。




