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愛に道理は通じない 一

「しーちゃん、ごめん……」


 静音の亡骸を見つめながら、耕作は謝罪の言葉を繰り返していた。


 静音は穏やかな顔をしていた。

 眠っているかのような表情はどこか幼く、毎日のように公園で遊んでいた頃の面影が確かに残っていた。


 大人になって再会した後は、嫉妬に狂った醜悪な姿を数多く目の当たりにさせられた。

 だが彼女の本質は、昔と変わらず優しい少女のままだったのではないか。

 少なくとも耕作にはそう思えていた。


 その彼女が、なぜあんなにも泣き叫ばなければならなかったのか。

 なぜ、二度も死の苦しみを味合わねばならなかったのか。

 そんな仕打ちを受けねばならないほどに罪深いことを、彼女はしたのだろうか。

 耕作には、とてもそうとは思えない。


 もう嫌だ。

 もうたくさんだ。

 天使だの悪魔だのに振舞わされるのは。

 勝手な思惑に翻弄されて、悲劇がさらに繰り返されるのは、もうたくさんだ!


 耕作は今、腸が煮えくり返るほどの激しい怒りを覚えていた。

 歯を、折れてしまうのではないかと思うほどに強く食いしばる。

 両のこぶしも、血がにじみ出るまで強く握りしめていた。


 ジーリアが頬と頭髪を撫でまわしてくる。

 その動きは優しく、心を落ち着かせようとするものであった。

 だが今の耕作は不快感しか覚えない。

 激しく頭を振って、拒絶の意を示す。


 ジーリアは名残惜しそうに耕作の頬を一撫でしてから、動きを止めた。

 悪魔に向け、声をかける。


「上手くいったようね」

「ああ」


 ベルゼブブは満足気な顔で二つの種を眺めていた。

 やがて種を服の中に収めると、床に転がるもう一人の女性――ミーコへ相対する。


「よるな! このバカでかい蠅が!」


 ミーコは、静音の惨状を目の当たりにしていたにもかかわらず、闘志を衰えさせていなかった。

 牙を剥きだし、悪魔を威嚇する。


 ジーリアが冷たく宣告した。


「じゃあ次は化け猫の番ね」


 耕作は、間髪入れずに怒声を上げた。


「やめろ!」


 その声音は、普段の彼からは想像もつかないものだった。

 荒ぶり、ひび割れ、恐ろしい響きを帯びている。

 顔も、まなじりと眉が吊り上がり、鬼のような形相と化していた。


 ジーリアが、こちらは聖母のような穏やかな顔で、耕作をなだめ始める。


「耕作さん、ご安心ください。悪いようには致しません」

「何を今さら、ふざけたことを……!」

「あの化け猫は助かります」

「……なに?」


 耕作の爆発しかけていた怒気が、わずかながらも勢いを失った。

 この期に及んでジーリアの発言に耳を傾けるなど、お人よしにも程がある。

 それは耕作も承知していた。


 だが「ミーコが助かる」という言葉は、今の耕作にとって唯一のこされた希望と言ってもいい。

 その可能性を切り捨ててはならない。

 耕作の、強すぎるとさえ思える理性はそう判断し、怒気を抑え込もうとしていたのだ。


「私としては、あの化け猫はそれこそ地獄に叩き落してやりたいところなんですけど」


 と、前置きをした後。

 ジーリアは努めて冷静に話し始めた。


「でも仕方がありません。これからベルゼブブは、化け猫から先ほどと同じように種を回収します。つまり化け猫も種の力を失います」

「……」

「お分かりになりますか? あの化け猫は、ただの猫に戻るんです」


 ジーリアの言葉が稲妻と化して、耕作の心を貫いた。

 怒りや憎しみといった感情も、衝撃で完全に吹き飛ばされていた。


 呆然とする、彼の代わりに。

 ミーコが反論した。


「ふざけるな! そんな話、お断りだ!」

「うるさい。おまえが猫に戻る、それが耕作さんの望みなのよ。それに化け猫でなくなれば、死後は天国に行けるわ。残念だけどね」


 そうだ。

 その通りだ。

 ミーコが猫に戻り、死後も穏やかに暮らせるのならば、それに越したことはない。

 それこそが、自分の望みだ……。


 ……。

 ……なんだ?

 ……誰かの、叫び声が聞こえる……。


 考える最中、耕作は悲鳴にも似た声を聞いたような気がしていた。

 顔を上げて周囲を見回す。


 ミーコとジーリアは怒声を上げ、舌戦を続けていた。

 ベルゼブブはその様子を無言で眺めている。

 部屋の中にいる誰も、叫声を上げたような様子はない。


 何かの聞き間違いか、空耳だったか。

 と、耕作は考えた。


 するとその瞬間、叫声が再び轟いた。

 耕作も、今度は声の出所をはっきりと認識する。

 声は頭の中で鳴り響いていたのだ。


 この声はなんなのだろうか。

 天使や悪魔、あるいはミーコが超能力を使っているとも思えない。


 考える間にも声は次第に大きさを増していく。

 実際には聞こえていないはずなのに、耕作は頭を揺さぶられているかのような衝撃さえ覚え始めていた。


 やがて声には悲痛な色が強く濃くなっていく。

 それによって耕作は、誰かに警鐘を鳴らされているような気持ちになっていた。

 声に突き動かされるようにして、口を開く。


「……ジーリアさん」

「はい、なんでしょうか」

「そのお話は本当なんですか? ミーコが猫に戻って、天国にも行けるというのは……」

「はい、その通りです。神様に誓って本当のことです」

「そうですか……」


 耕作はつぶやいた。

 ジーリアが本当のことを言っているのなら、もう心配する必要はない。

 と、結論を下そうとした。


 叫声がさらに勢いを増した。

 頭の内から、悲鳴と絶叫がぶつかってくる。


 こんな大事な時に、自分の身体には何が起きているんだ。

 耕作は考え、頭を振り、自分自身に舌打ちを漏らした。


 苦悩しているかのような耕作の所作と、勝ち誇った様子のジーリアを見て。

 ミーコが声を上げた。


「私はこのまま、コーサクの恋人になるんだ! それに、死んだって天国へなんか行くもんか!」


 拘束された身体を滅茶苦茶に動かし、暴れまわる。

 ジーリアが鼻を鳴らしながら答えた。


「残念だけど、そうはいかないわよ。おまえが確実に天国へたどり着けるように……二度と人間に戻ったりしないように、私が監視しておくから」

「……ニャ?」

「何かのきっかけで、おまえがまた種の力を発揮したりしないよう、死ぬまで見届けてあげる。そこの死にぞこないの身体を使ってね」


 ジーリアは静音の亡骸へ顎を向ける。

 耕作はハッとした顔を見せ、問いかけた。


「ということは、貴女はまたしーちゃんの身体に乗り移って……」

「はい、その通りです。あの女の身体を使って耕作さん、貴方の恋人……いえ、先々は夫婦として暮らしながら、同時に化け猫も監視する。これこそ全員が幸福になれる、完璧な解決です」


 ジーリアは耕作を抑えたまま胸を張った。

 ミーコが憤然とした声を出す。


「鳥公、貴様!」

「私と耕作さんが結ばれる様を、傍らで眺めてるといいわ。まあ猫に戻ってるから、どこまで理解できるか怪しいものだけど」


 ジーリアが勝ち誇り、ミーコは憤激に髪を逆立てている。

 二人の応酬を眺めつつ、耕作は自分の考えを述べ始めた。


「ジーリアさん、それでは完璧ではありません」

「え?」

「それだと、少なくとも俺は不幸です」

「なぜですか?」

「貴女と恋人や夫婦になるつもりは、俺にはありません」


 耕作の声は小さく寂しげではあった。

 だがそこには、明確な拒絶の意が含まれていた。


「もう俺は、貴女に振り回されるのはうんざりです。ミーコのそばにも寄ってほしくない。ミーコが猫に戻ったら、二人で静かに暮らしていきます。それが俺の幸福です」


 ジーリアは沈黙する。

 そして顔から表情も消して、耕作をじっと見つめていた。


 一方、耕作の頭の中ではまだ叫声が鳴っていた。

 彼が語った、決意の言葉をかき消すほどの勢いで、警鐘を鳴らし続けていたのだ。


 うるさい。

 うるさい。

 うるさい!

 なんなんだ、この声は!

 俺は今、大事な話をしているんだ!

 邪魔をしないでくれ!


 耕作が呼びかけても、声は収まらない。

 それどころか聴覚を飛び越え、五感を埋め尽くすほどに声量を増していく。


 鼓膜が破れそうだ。

 視界もおぼろげになっている。

 暑いか寒いかすらも分からなくなってきた。

 何もかもが、悲鳴にかき消されていく……。


「……耕作さんのお気持ちは分かります」


 遠い遠い所から、ジーリアが話しかけてくる。

 耕作はぼんやりとした頭で、その声を聞いていた。


「化け猫と死にぞこないに同情して、私に怒りを向けている。お優しい耕作さんなら当然のことです」

「……」

「ですが、耕作さんがそのようなお気持ちになることを、私が想定していなかったとお思いですか?」

「……え?」


 とてつもなく嫌な予感に襲われ、耕作は我に返った。

 叫声はまだ鳴り続けていた。

 それでも五感は戻り、視界も明瞭になっていく。


「私は耕作さんを二十年ちかく見守っていました。私は耕作さんの全てを知っています。全てを理解しています。ですから、私に怒りを向けるのも想定済みです。……そして想定している以上、対策も立てています」


 網にかかった獲物を見つめる、蜘蛛。

 今のジーリアが醸し出している雰囲気は、まさにそれであった。


「耕作さん、これから貴方の時間を巻き戻します」

「時間を巻き戻す?」

「はい。若返らせる、と言ってもいいでしょうか。でも期間にすればほんのわずか、三週間とちょっと程度のことですが」

「それは、まさか……!」

「はい。耕作さんの記憶も、死にぞこないを事故から救った頃まで戻ります」


 耕作の視界が、驚愕のあまり暗転した。

 彼は正確に理解していたのだ。

 ジーリアが語った言葉の、恐るべき内容を。


「そうすれば耕作さんは、あの化け猫が人間になったことも忘れます。河原崎静音となった私への好意も、元に戻ります。魂に帯びていた悪魔の影もなくなります。記憶が戻ることで、しばらくの間は悩まれるかもしれませんが……でも大丈夫」


 ジーリアは全身を、愛撫するかのように耕作に擦り付けた。


「恋人になった私が上手く説明しておきます。そして一生、貴方を支えます」


 耕作は今まで経験したことのない、発狂しかねないほどの恐怖を覚えていた。

 全身から汗が、一気に流れ落ちていく。


 恐怖の対象となったのは、ジーリアの狂愛だけではない。

 真実を知らぬまま彼女に束縛され続ける、その未来を怖れたということだけではないのだ。

 耕作からすると、それは二次的なものにすぎなかった。

 彼が真に怖れたもの、それは――。


「……いや、冗談じゃない」

「え?」

「ミーコの記憶を失うなんて、冗談じゃない」


 耕作の声は毅然として、力強いものだった。

 これまでの暗く沈んだものとは一転した、その声を聞いて。

 ジーリアも思わず息をのんでいる。


「ミーコの姿を忘れてしまうなんて、耐えられない。俺を一番に愛してくれた女の子を、心の中からも失ってしまうなんて……いいや、違う。そうじゃない」


 耕作は、ようやく気づいていた。

 先ほどから頭の中で聞こえていた、叫び声。

 あれは自分の、心の声だったのだと。


 自分の心が、傷つき壊れていく悲しみと苦しみに悲鳴を上げていたのだ。

 そして強すぎる理性を打ち破ろうとして必死にもがき、抵抗していた。


 早く目を覚ませ。

 道理や良識など些事にすぎない。

 自分にとって本当に大事なものは何か、それを思い出せ。

 と、警鐘を鳴らし続けていたのだ。


 耕作は頭を振った。

 汗と涙が合わさった雫が、頬を伝って床へ落ちていく。

 それによって最後まで残っていた理性と躊躇いもまた、彼の中から絞り出されたようだった。


 乾ききった口内に無理やりに息を押し込んで。

 耕作は告げた。


「俺はミーコを愛しているんだ。宝石みたいに綺麗な目も、触れると気持ちいい肌や髪の毛も、いつも俺に向けてくれた、あの笑顔も……人間のミーコを、俺は愛しているんだ。だからミーコを完全に失ってしまうなんて、俺には耐えられない」


 鳴り続けていた悲鳴が、ようやく止まった。

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