二度目の別れは残酷で 二
静音は恐怖に目を見開き、髪を振り乱し、震える声をも出していた。
「嫌よ……! 天国へなんか戻りたくない!」
拘束された身体を懸命に動かし、床をはいずって逃げ出そうとする。
その姿は、あまりにも悲痛なものだった。
耕作の目から、光る雫が落ちる。
「しーちゃん! 頼む、やめてくれ。お願いだ……」
耕作は顔を伏せ、懇願した。
ジーリアに捕らわれていなければ、間違いなく土下座もしていただろう。
「頼む、ジーリアさん、ベルゼブブさん。しーちゃんを助けてくれ……」
天使と悪魔という強大な相手に対し、彼はあまりにも無力だった。
できることと言えば、こうしてなりふり構わず慈悲を請うことしかなかったのだから。
しかし懇願をつづけたところで、ベルゼブブには無意味であろう。
ジーリアに至っては、嫉妬心を煽ることにもなりかねない。
それは耕作にも分かっていた。
ただ今の彼には、静音を助ける方法はこれしか思い浮かばなかったのだ。
だから万が一、いや億が一の可能性に賭け、頭を下げ続けていた。
だがしかし。
必死な思いは、もろくも踏みにじられる。
ジーリアは耕作の泣き顔を見て、続いて静音を一瞥した後。
能面のような無表情で耕作にささやいた。
「耕作さん、あの死にぞこないがそんなに大事なんですか?」
「そうです! だから……」
「あいつは耕作さんを騙したんですよ?」
「え?」
意外な言葉を受け、耕作は顔を上げる。
ジーリアは静音を顎で指し示した。
「先刻あいつは『悪魔祓いの儀式を行う』と言って耕作さんと交わろうとしていましたが、あれは嘘です。あんな方法の悪魔祓いは、存在しません」
「じゃあ……」
「そう。あいつは嘘をついてまで、耕作さんと既成事実を作ろうとしていたんです」
耕作は絶句し、静音に目を向ける。
静音はハッとした表情になっていた。
それから数度、口を開いて何かを言いたげな素振りを見せる。
だが結局、唇をかみしめて耕作から目をそらしていた。
ジーリアの発言は正しい。
静音の所作によって、耕作もそれを悟った。
「お分かりになりましたか? あいつは耕作さんの信頼に値しない存在なんです。涙を流す必要もありません。その涙は……」
ジーリアは白く細く、そして美しい指先で耕作の頬を撫で、涙をすくい取った。
指先に集まったそれを、甘露を味合うかのように舌でなめ上げる。
「私にこそ相応しいものです」
「うるさい、この盗人! あんただってこーくんを騙して抱かれようとしていたくせに!」
「コーサクから離れろ、鳥公! その羽むしり取って身体をバラバラにして、豚の油で揚げてやる!」
ミーコと静音は憤激し、様々な罵詈雑言を浴びせてきた。
しかしジーリアは堪えない。
舌を艶めかしく動かし、耕作の耳から頬、さらに唇から首筋に至るまでをなめまわしていた。
耕作は身じろぎして逃げ出そうとした。
だがジーリアは許さない。
より強くしつこく、両腕両脚を耕作の身体に絡みつかせ、彼の動きを封じていく。
「耕作さん、なぜ拒むのですか? 私にお任せくだされば、耕作さんの人生を至上の快楽と幸福で埋め尽くして差し上げます。だから暴れずに……ああ、でも……嫌がる耕作さんも可愛い……」
ジーリアは完全に発情していた。
頬を朱に染め、目を潤ませ。
口元から涎を垂らしながら、耕作へむしゃぶりついている。
さらには耕作への甘言と、ミーコと静音を貶める発言を繰り返していた。
ミーコと静音の、発狂したかのような声が部屋中に満ちていった。
二人は唇を噛みちぎり血涙すら流す勢いで、呪詛の言葉をジーリアへ放っている。
当然ながら超能力で攻撃しようともしていた。
だが発動させた超能力は、すぐにジーリアとベルゼブブによって無効化させられてしまっていた。
悲鳴と怒声だけが続く状況となった、部屋の中。
沈黙を守っていた耕作が、遂に口を開いた。
「いや……だとしても、かまいません」
「え?」
「しーちゃんのことです。彼女は大切な幼馴染なんです」
耕作の声には、迷いもためらいもなかった。
ジーリアも興奮が引いてしまったのか、息をのんでいる。
「俺を騙したのも、俺を想ってくれて、考えた末にそうしたんだと思います。だからかまいません」
「こーくん……」
静音は耕作を仰ぎ見て涙を流し、笑顔を浮かべた。
耕作も彼女を見つめ返し、微笑みで答える。
二人の様子を見て。
ジーリアは即座に美貌を歪め、悪魔などよりもはるかに恐ろしい顔を見せた。
憤怒で煮えたぎった声をも出す。
「そう、ですか」
「はい。ですからジーリアさん、しーちゃんを……!」
「なおさら許せませんね」
耕作にそれ以上、哀願する間を与えずに。
ジーリアはベルゼブブに向け、叫んだ。
「ベルゼブブ、何をしている!? さっさと話を進めろ!」
「ん? なかなか面白い見世物だったのに、もうやめるのか?」
「貴様!」
ベルゼブブは肩をすくめ、薄笑いを浮かべる。
それからゆっくりと静音に歩み寄った。
「おまえの抵抗は見苦しくはあったが、だからこそ興のあるものでもあった。馬鹿馬鹿しい任務の暇つぶし程度にはなったからな、礼を言わせてもらおう」
静音は拘束された身体を必死に動かし、後ずさった。
だが背後に壁がある以上、その抵抗もすぐに終わってしまう。
追い詰められた静音を見て。
ベルゼブブは笑いを収め、冷然と告げた。
「だが、これで終わりだ」
「嫌よ、冗談じゃないわ!」
静音は絶叫し、再び超能力を発動させた。
全ての凶器群が浮き上がり、今日これまでで最大級の竜巻が発生する。
だがそれらもベルゼブブが右手を翻すだけで、すぐに動きを止めてしまった。
抵抗する手段を完全に奪われ。
静音は虚ろな目で、ただ呟き続けた。
「嫌……嫌よ……。せっかく私を取り戻したのに……こーくんに会えたのに……こーくん……」
「しーちゃん!」
耕作は目から、滂沱のごとく涙を流していた。
死に物狂いでジーリアを振りほどこうとする。
しかし天使はびくともしない。
喜悦にまなじりを下げながら、ベルゼブブに再び命令した。
「その死にぞこないの身体には、傷をつけないでよね」
「注文が多いな」
「当然でしょ。私が使うんだから」
その発言を聞き。
耕作は一瞬、頭が真っ白になるほどの驚きを覚えていた。
ジーリアは静音の身体を、これから先も利用するつもりなのか。
静音の尊厳をどれだけ踏みにじれば気が済むのか。
その考えに至った時。
さしもの耕作も、激怒した。
「ジーリアさん! それはどういうことだ!」
静音も続けて怒声を轟かせる。
「おまえは、まだ私を!」
彼女の怒りは、耕作以上に凄まじい。
眼球に血管が浮き出るほどの憤怒の表情で、天使を睨みつける。
ジーリアは耕作をなだめるように、彼の頭を優しく撫でた。
続けて静音には嘲笑を向け、居丈高に宣言した。
「おまえの存在なんて、本来なら塵一つ残さず消し去るべきなのに。有効利用してあげるんだから感謝してほしいわね」
「盗人! だれがおまえなんかに!」
「いい加減うるさいわね。ベルゼブブ、さっさと終わらせなさい」
ベルゼブブは静音の間近まで歩み寄り、彼女の胸の上に右手をかざした。
その手からどす黒い、炎のように揺らぐ影が放出された。
影は静音の身体を覆い、広がっていく。
静音は恐怖のため瞬きすらできなくなった目で、身体が影に取り込まれていく様を見ていた。
「嫌……嫌よ……こーくん!」
「しーちゃん!」
耕作の絶叫もむなしかった。
影は静音の全身を覆いつくし、黒い蓑虫のような姿になっていた。
数瞬の間、影はその状態を保っていたが、やがて収縮を始める。
ベルゼブブの元へ戻り、掌の上で丸い塊となった。
ベルゼブブはこぶしを握り、黒い塊を握りつぶす。
そして一呼吸おいてから、手を開いた。
掌にはもう影はなく、焦げ茶色をした、二粒の小さな種だけが残っていた。
ベルゼブブは種を見て、満足そうに頷いた。
静音の身体は影に覆われる前と同じ場所に横たわっていた。
彼女はもう、声を上げることはない。
目を開くこともない。
微動だにせず、眠っているかのように、ただそこに横たわっていた。
静音との二度目の、そして永遠であろう別れが訪れた。




