力の発動 一
「厄介な物事が発生した時は、問題点を一つずつ、順番に解決していくべきだ」
耕作は部屋の中で、少女と正座で向かい合いながら、考えた。
とは言っても、どこから手を付ければいいのやら、ではあるが。
咳払いを一つした後、質問を始める。
「つまり、君はミーコなんだな」
少女は激しく、何回も頷いた。
耕作も先ほどは、一目見るなり、少女をミーコだと思っていた。
そのおかげで今も普通に、会話ができている。
しかし落ち着いて考えれば、そもそも猫が人間になるはずもない。
三色の髪の毛にしても、染めているのかもしれない。
黄色い右目と青い左目は、カラーコンタクトかもしれない。
「しかしこれは、さすがに無理だろうな」
耕作は、少女の頭部に突き出ている二つの突起物、いわゆる猫耳を見て思った。
試しに摘まんで引っ張ってみる。
「痛い痛い痛い痛い痛い! コーサク、痛い!」
少女は涙目になりながら、抗議の声を上げた。
猫耳にはよく見ると血管があり、血が通っているのも分かった。
耕作は猫耳から手を放すと、三色の髪の毛を掻き分け、人間であれば耳があるであろう場所を、探ってみる。
そこは他の頭皮と同じように、髪の毛だけが生えていた。
「あっ……コーサク、んっ……」
少女がなにやら艶めかしい声を上げだしたので、耕作は慌てて手を放す。
続いて少女と距離を開け、全身を観察した。
少女の肌はまさに、白磁のような、という表現が相応しい白さだった。
色の異なる両眼には、宝玉のように透き通った輝きと、太古の湖をも凌駕する深さがある。
目鼻立ちは、美神の愛娘として生まれ出でたかのような、幼さを残しながら同時に気高さをも感じさせる、完璧な造形をしていた。
類まれなる、万人の視線を釘付けにするであろう美しさである。
身体は顔同様、十代前半の少女相応に発達している。
今は耕作のワイシャツを着せているので見えないが、胸も既に膨らみ、主張を始めていた。
先ほど目にした少女の全裸姿を思い出し、耕作は慌てて頭を振った。
ともかく、少女が普通の人間でないことは分かった。
ならば次は、彼女が本当にミーコなのかどうかという点が、問題になる。
しかし、どうやってそれを確かめればいいのだろうか。
少女本人のことは、既にある程度、質問を終えている。
そこで耕作は、自分についてどれだけ知っているのかを、聞いてみることにした。
「俺の名前は?」
「コーサク、吉良耕作」
「歳は?」
「二十四歳」
「じゃあ……」
「コーサクのことなら、なんでも答えられるよ。嫌いな食べ物は無し。逆に好物は、私と同じマグロのお刺身。でも、私はあんまり食べちゃいけないんだよね……。趣味はもちろん、私と遊ぶこと。それ以外には将棋と水泳。テレビはあんまり見ないけど、日曜にやってる将棋番組は欠かさず見てる。あ、それと夜中に時々ちんちんいじってるよね。その時はパソコンにある『巨乳』ってフォルダの中から……」
「やめてくれ、それ以上言うな!」
今までミーコの前で晒してきた痴態を思い出し、耕作は頭を抱えた。
猫相手の時は当然気にもしていなかったが、今や相手は美少女である。
恥ずかしいどころの話ではなかった。
ここに至って耕作は、少女がミーコであることを認めた。
「それで、なんでこんなことになったんだ」
相手がミーコであると分かったならば、次の段階に移るべきである。
耕作の問いに対しミーコは、昨夜自分の身に起きたことを説明した。
耕作の呟きを聞いたこと。
願いが叶うよう、祈ったこと。
天使と悪魔が現れたこと。
それから眠りに落ちて、目覚めたら人間になっていたこと、等々である。
「天使と悪魔か……」
耕作は呟き、思考の海に沈む。
にわかには信じがたい話である。
とは言っても、猫が突然擬人化するという、そんな奇病があるはずもない。
他に納得できる説明も思いつかない。
それになんと言っても、ミーコが自分に嘘をつくとは思えない。
信じるしかないだろう。
耕作はそう、結論付けた。
しかしそうだとすると、彼には一つ、どうしても放っておけないことがあった。
「なんでそんな勝手なことを!」
怒気を込め、耕作はミーコを叱った。
「ニャッ!?」
耕作が珍しく、本気で怒っている。
それに気付いたミーコは、涙目になった。
「ごめんなさあい……」
頭を下げ、謝る。
しかし耕作が続けて、
「魂を渡すなんて約束したら、どうなるか分かってたのか!」
と言ったので、
「え?」
と、一瞬呆けてしまった。
どうも自分が考えたのとは違う理由で、耕作は怒っているらしい。
ミーコはそう思い、恐る恐る問いかけた。
「あの……私が魂を悪魔に上げるって言ったから、怒ってるの?」
「ん?」
今度は耕作がミーコの意図を測りかね、困惑した。
「それ以外に怒る理由なんかないだろ?」
「私が勝手にコーサクの願いをかなえようとしたから……」
「ミーコが俺のことを思ってしてくれたんだから、怒るわけないだろ。とても嬉しいよ」
「コーサク!」
自分の事を心配し、怒ってくれていた。
その事実に気付いたミーコは、喜びのあまり満面の笑みを浮かべ、耕作に抱き付いた。
耕作は鼻腔に広がる、猫だった頃の匂いをわずかに思い出させる、ミーコの甘い香りに、酩酊しそうになっていた。
慌ててミーコを引き離す。
生真面目な顔と正座を作り直すと、毅然とした態度で、再度説教を始めた。
「とにかく魂を渡したりしたら、とんでもないことになるんだぞ」
「どうなるの?」
問いかけられて、耕作はいきなり言葉に詰まってしまった。
はて、悪魔に魂を取られると、どうなるのだろうか。
碌でもないことになるのは、予想できた。
しかし具体的にどうなる、と問われると、普段信心深い訳でもない身としては、答えようがない。
地獄に落ちる、とでも言えばいいのだろうか。
しかしそんなことを告げるのは、ミーコが可哀想だ。
そう考える耕作は、この期に及んでもミーコに甘かった。
「タバコとかレモンとか、それに唐辛子も敷き詰められた部屋に、閉じ込められるんだぞ」
結局、そう返答した。
耕作はこの時、自身の発想の貧困さに、自分でも呆れていた。
情けないことに、ミーコが嫌がりそうなものと言うと、それぐらいしか浮かばなかったのである。
それでもミーコは、顔を崩し、泣きそうな素振りを見せていた。
だがしばらくすると、両手の人差し指を突き合わせ、呟く。
「……が、我慢する」
「え?」
「私が我慢すれば、コーサクは『カノジョ』を手に入れられるんでしょう? それでコーサクが幸せになれるんなら、我慢する」
かわいい。
ミーコの健気さに、耕作は身体中の血が頭に上ったような興奮を感じていた。
ミーコを抱きしめたい衝動にも駆られたが、全身の力を振り絞り、なんとか自制する。
そして、「いいかい、ミーコ」と前置きをしてから、説得を始めた。
「俺の幸せは、ミーコが幸せになることだ。ミーコがそんな可哀想なことになったら、その時点で俺は不幸だ。だから自分を大事に……」
「コーサク!」
こちらは自制する気など更々ない。
ミーコは再び、耕作に抱き着いていた。
「ところでコーサク、『カノジョ』のことだけど……」
「ん?」
「『カノジョ』ってなんなの?」
耕作はその説明をしていないことに、今更ながら気が付いた。
「それはまあ、恋人のことだ」
「コイビト?」
「猫っぽく言うと、俺とつがいになる女性のことかな」
「ああ、交尾の相手か」
ミーコの単刀直入な表現を聞いて、耕作はよろけそうになる。
「それもあるけど、それだけじゃないぞ。一緒に出かけたり、遊んだり、食事をしたり。将来は結婚もして、一緒に生活して、子供を作って育てて、共に老いていき、最後まで傍にいて、死後は同じ墓に入る人だ」
結婚に幻想を持っているような返答になってしまった。
でもまあ、間違いではないだろう。
耕作はそう思い、説明を終える。
ミーコは黙って聞いていたが、その後なにやら考え込んでしまった。
数十秒後。
ミーコは数回、得心するように頷いた。
立ち上がり、耕作に人差し指を突き出し、叫ぶ。
「分かった、コーサク、それだニャ!」
「へ?」
間の抜けた声を、耕作は発していた。
ミーコは気にせず、話を続ける。
「私が人間になった理由だニャ! 私はコーサクと遊べるし、一緒に生活することもできた。でも交尾したり、子供を作ったりするのは無理だった。でも今、人間になったことで、その欠点は克服されたんだニャ! これで私は、コーサクの彼女になれる!」
幸せいっぱい。
と書かれた顔を、ミーコは耕作に向けた。
一方耕作は「ああ、やっぱりそうなのか」と思っている。
耕作も、気づいてはいたのだ。
ミーコが擬人化されたのは、自分の彼女になるためなのだということを。
それにしても、「彼女が欲しい」という願いをかなえるため、飼い猫を人間にするとは。
随分とひねくれた方法をとるものだ。
耕作は、なんとはなしに溜め息をついていた。
そして改めてミーコの笑顔を眺めた時。
耕作は、ふと気づいた。
神と悪魔のどちらによって、ミーコは人間になったのだろうか、と。
耕作は立ち上がってキッチンに行き、冷蔵庫からビールを取り出す。
再び部屋に戻ると、グラスにビールを注ぎつつ、さらに考えを進めていった。
猫を擬人化する。
そんな悪趣味なことを、神がやるとも思えない。
しかし悪魔にそんな力があると考えるのも、空恐ろしい。
どちらにしても、もう一回天使なり悪魔なりを呼び出し、話を聞きたいところだ。
考え込む耕作の前で、ミーコは彼女になれる喜びに浸り、悶えまくっていた。
涎すら垂らしている。
それでもしばらくすると、何かを思い出したように表情を改め、耕作に話しかけた。
「そういえば約束通りだとすると、彼女がもう一人」
ミーコの言葉は、そこでアラーム音に遮られた。