彼女達の事情 二
なに?
今、しーちゃんはなんと言った?
静音の発言の意味を、耕作はすぐには理解できなかった。
目の前にいる、たくましい身体をした女丈夫――加藤が自分の母親だと、静音は告げたのだ。
耕作は言葉を失い口を丸くして、ただ目の前の情景を眺め続ける。
加藤も、静音の発言に衝撃を受けたのだろう。
呆然とした様子で立ち尽くし、彫りの深い顔に濃い影を落としていた。
額には汗がにじみ、唇はわずかに震えている。
他方、静音は完全に表情を消していた。
能面のような顔で加藤を見つめている。
誰もが言葉を失い、無音の時間は永遠に続くかとも思われた。
だが、しかし。
やがて加藤が震える唇を開き、絞り出すようにして声を発した。
「お嬢様……」
静音はわずかに目を細めただけで、返事はしなかった。
すぐに顔を耕作に向け、寂しげな声音で、しかし明確に告げる。
「こーくん。今いったとおり私の本当の母親はこの人、加藤さんなの」
「それは一体どういう……」
耕作はまだ、思考も言葉も追い付かない。
その間に静音は説明を続けていく。
「おかしいよね? 母親なのに、娘の従者になっているなんて。……こんな狂った母娘関係になったきっかけは、お父様の女癖の悪さにあるの」
静音の声は、次第に怒りの色を増していった。
静音の父親は若い頃、大変な美男子だった。
加えて大企業の御曹司ということもあり、女性には絶大な人気があった。
さらに言えば当人も、女性への関心は人並み外れて大きかった。
己の衝動のおもむくまま様々な女性と関係を持ち、浮名を流し続けている。
相手は職場の同僚から芸能人、果ては一介の学生に至るまで、様々だった。
ただそれだけ女遊びを繰り返したにもかかわらず、なぜか子供はできなかった。
この点については本人も疑問と不安を抱き、主治医に自分の身体を調べてもらっている。
その結果。
父親は、先天的に子供を作りにくい体質をしていたことが判明する。
これは河原崎家の当代としては、重大な欠陥と言えた。
後継者を残すという責務を果たしにくくなるからだ。
父親もこの事実を初めて知らされた時には、少なからず落ち込んでいる。
もっとも彼は、そのまま若い身で引退してしまうような弱い人物ではなかった。
女性と数多くの修羅場を経験したため、逆境で開き直る図太さも持ち合わせていた。
そこで彼は「子供を作る機会をより多く設けるため」と言う理由で自己弁護をして、女漁りに拍車をかけていくようになっていったのである。
「結婚してからもそれは変わらなかったらしいわ」
静音が、吐き捨てるように呟いた。
破滅的と言ってもいいほどの、色に溺れる生活を続ける中。
父親はやがて、若き日の加藤にも手を出した。
当時、加藤は河原崎家の使用人として勤め始めたばかりであった。
すでに今と変わらぬ体躯で、中年男性のように厳つい、美人からはほど遠い顔立ちもしていた。
そんな相手と、なぜ父親は関係を持ったのだろうか。
理由ははっきりしない。
「美食ばかりではなく、たまにはゲテモノも食べたくなったのかしらね?」
冷笑を浮かべながら、しかし眉間に皺も寄せ、静音は言った。
加藤との関係など、父親にとっては分厚い女性遍歴のうちの一ページに過ぎない、そのはずだった。
だが奇跡が起きる。
加藤が身ごもったのだ。
その事実を知った時。
父親は驚き、続いて疑問を抱いた。
本当に自分の子供なのだろうか、と。
数多くの女性と関係を持ち、何千回と情交を行い、諦めかけていた中で初めて結果が出たのだ。
当然のように、彼は医者に検査を要求した。
結果として生まれた子供――静音は間違いなく彼の子種だということが判明する。
父親は狂喜した。
だがその時、彼に冷水を浴びせる者がいた。
彼の妻。
後に静音の義母となる人物だ。
彼女の生家は、河原崎家に匹敵するほどの資産家だった。
というよりも血筋としてはこちらの方が遥かに格上の、由緒正しい名門である。
その名家の娘として育ったため、義母は美人ではあったが気位が高く、大変に嫉妬深い面もあった。
それでも彼女は、夫が浮気を繰り返していた点については我慢を重ね、見て見ぬふりをしていた。
子供を授かっていないという負い目があり、夫の体質も理解していたからだ。
だが実際に他の女が身ごもったと知ると、そんな事柄は全て吹っ飛んでしまった。
義母は怒りを爆発させた。
夫に罵声を浴びせ、加藤を家から叩き出した。
そして加藤親子と縁を切るよう、夫に迫ったのだ。
父親は加藤親子を守るべく反論したが、義母は頑として譲らなかった。
義母の生家の力は、彼も無視できない。
できるのは、加藤へ十分な仕送りをするという妥協案を義母に飲ませる、それが精いっぱいだった。
結局、加藤は幼い静音と共に、河原崎家を追われる羽目となる。
そして当時、耕作が住んでいた街にたどり着き、そこに住み始めたのだ。
静音の話を聞き、耕作は思い出す。
幼き日に静音に付き添っていた、大柄な人物のことを。
あれは加藤だったのだ。
服装も体格も男としか思えなかったので、静音の父親だと思っていたが。
事実を知った耕作は、加藤に目を向ける。
加藤は神妙な顔で礼をした後、申し出た。
「改めてお久しぶりでございます、吉良様。まさか吉良様があの時のお子様だったとは、まったく気づきませんでした。不明を恥じるばかりでございます」
「いや、そんな。お気になさらないでください」
答えつつ、耕作は考える。
静音が以前、自分の街に住んでいた理由は分かった。
しかしそうだとすると、今の彼女はなぜ、河原崎家の令嬢と言う地位にいるのだろうか。
耕作は躊躇いつつ、疑問を静音にぶつける。
静音は嘲り笑うような表情と声で答えた。
「お父様に、天罰が下ったの」
「天罰?」
静音は頷き、さらに語り続ける。
加藤母娘が追放された後、静音の父親は大病にかかった。
ようやく生まれた我が子を追い出さざるを得なかった不甲斐なさと、女狂いの生活で、心身の疲労が限界に達したのかもしれない。
一命はとりとめたものの、引き換えとして大きな代償を払う羽目になる。
子供を作る能力が完全に失われてしまったのだ。
この事実を知り、父親は愕然とする。
だが彼以上に彼の親族たちが大騒ぎし、色めきだった。
彼らからすると、自分、あるいは自分の子供が次の当主となるチャンスが訪れたのだから、当然ではある。
早くも骨肉の争いを始めようとしていた親族たちの様子を見て、父親は考えた。
このまま内紛が起きれば、河原崎家にとって一大事となる。
となればそれを避ける手段は、一つしかない。
彼は決心した。
妻に向かって土下座し、懇願する。
静音を自分の子として受け入れてほしい、と。
夫の要求を、義母は容易には受け入れなかった。
激しい言葉を夫に浴びせかけ、何日にもわたって抵抗を続けた。
しかし最後には、他に手段がないと悟ったのだろう。
歯ぎしりをし、憎悪に満ちた表情ながらも、首を縦に振っている。
「でもお義母様は、一つだけ条件をつけたの」
「条件?」
「そう。変質的な、とても人とは思えないような条件をね」
静音の言葉には耕作が驚くほどの、明確な嫌悪の念が込められていた。
義母のつけた条件とは。
それは、静音だけでなく加藤も河原崎家で受け入れるというものだった。
その話を初めて聞かされた時、父親は妻の寛大さに驚き、涙ながらに感謝の言葉を述べている。
だが、その反応は間違いだった。
彼の妻は加藤母娘に情けをかけるつもりなど、これっぽっちもなかったのだ。
義母は加藤を迎えると、即座に彼女を元通り使用人、それも静音の従者に任命した。
さらに親子の縁も切らせて、母には娘を「お嬢様」と呼ぶように強制した。
そして娘には母を「加藤さん」と呼ばせたのだ。
もちろん呼び名だけでなく、生活のあらゆる面で主従関係を徹底するよう、命令した。
静音が加藤に情けをかけるような素振りを少しでも見せれば、情け容赦なくなじり、折檻を加えた。
逆に加藤が肉親の情を見せた時などには、自分だけでなく静音にも加藤を責めさせている。
母親を土下座させたうえ、娘に頭を踏みつけさせたり、冷水を浴びせかけさせたりしていた。
それを今に至るまで、延々と続けさせたのだ。
義母の陰湿な復讐の内容を聞かされ、耕作は絶句する。
主人と従者と言う立場を長きに渡って強制され、この母娘はどんな気持ちでいたのか。
彼には想像すらできない。
「でもね、こーくん。加藤さん……お母さんを使用人として扱うことなんて、大したことじゃなかったのよ」
「……え?」
「親子の縁が切れたぐらい、どうってことなかった」
静音は口と目を閉じ、うつむいた。
それからさばさばとした、しかし底知れぬ迫力を秘めた声を発する。
「だって私はこの家、河原崎家に迎えられて……そして、殺されたんだから。親子の縁が切れたぐらい、大した問題じゃなかった」
耕作は息を飲んだ。
明るく居心地が良かったはずの部屋が、静音の発言によって暗く寒気がするものへと変わっていく。
河原崎家に迎えられてから、静音は変貌を余儀なくされていった。
河原崎家の令嬢として。
次期当主として。
心も身体もそれにふさわしいように、作り替えられていった。
彼女を矯正したのは義母だけではない。
父親や周囲にいる数多くの人々が、教育と言う名のもとに情け容赦なく彼女の人格を踏みつぶし、蹂躙した。
立ち振る舞いや教養だけではない。
自由であるはずの思想や信条に至るまで、徹底的に改めさせられた。
それは静音からしてみれば、泣くどころか逃げ出したくなるほどの辛い日々であった。
だが幼い静音には、抵抗するすべはない。
やがて彼女の中に芽生えていた本来の人格は、周囲の圧力によって完膚なきまでに消滅させられる。
つまり彼女は「殺された」のだ。
そして彼女には、新たな人格が上書きされる。
美しく聡明な、非の打ち所がない令嬢「河原崎静音」が。
「だからこーくん、あんなに大切に思っていた貴方のことも、私は忘れてしまった」
「……」
「でも」
静音は視線を耕作に向けた。
燃え上がるような情熱を込め、宣告する。
「そんな私を、こーくんは助けてくれた。だから今度は私がこーくんを助ける」




