油断大敵
耕作は翌日から、さっそく会食の準備を始めた。
と言っても、それほど大がかりなものではない。
まずは近場にあり個室も備えたレストランをインターネットで探し出す。
実際に訪問して中を確かめ、問題ないと判断すると、すぐ日曜日の予約を入れた。
ミーコを変装させるためのサングラスなどの小道具も通販で取り寄せた。
木曜日には準備もほぼ終わったので、静音に会食の時間と場所を連絡する。
彼女もあっさりと了承してくれた。
後は当日、日曜日を待つだけである。
こうして耕作は、いたって平穏に今週を乗り切ろうとしていた……。
……という訳でもなかった。
なぜかというと、彼はこの間、静音から積極的なアプローチを受けるようになっていたのだ。
前回の耕作との会食でタガが外れてしまったのだろうか。
静音はまるで天使が再臨したかのように、毎日ひっきりなしにメッセージを送ってくるようになった。
内容は挨拶から世間話、さらには露骨な求愛の言葉まで様々である。
耕作はそれらのメッセージを見るたび、天使の時と同様、喜ぶどころか溜め息をついてしまっていた。
従って返信も極力ひかえ、やり過ごそうとしている。
だが静音は、当然というべきか、そんな消極的な対応では満足できなかったらしい。
さらに大胆な行動を取るようになっていった。
木曜日。
チャイムの穏やかな音色が耕作のオフィスを通り過ぎた。
昼休みが始まったのだ。
耕作は腕を広げて身体をほぐしてから、食堂へ行くため立ち上がろうとした。
すると、その時。
「こーくん!」
溌溂とした声が彼の耳に飛び込んだ。
耕作は愕然としつつ、恐る恐る声の方へ顔を向ける。
静音の、花の咲くような笑顔がすぐ目に入った。
彼女はリスや子熊が描かれた可愛らしいカバンを一つ、手にしている。
静音は耕作に駆け寄ると、弾んだ声を出した。
「こーくんのために一晩かけて作ってきたの」
手にしたカバンを前に差し出す。
中にはおそらく彼女お手製の弁当が入っているのだろう。
周囲から耕作に向かって、嫉妬で矢と化した視線が次々と飛んで来た。
苦笑や舌打ち、さらには揶揄と羨望にまみれた声も上がり始める。
耕作は、あっという間に居たたまれなくなっていた。
静音の腕を掴み、逃げるようにしてオフィスから出ていく。
二人だけで話せる場所を探し出すと、周囲の目があるのでこういうことはやめてほしい、と申し出た。
しかし静音は納得しなかった。
頬を膨らませて反論する。
彼女の言い分はつまるところ、
「あの子はこーくんと暮らして毎日一緒にご飯を食べてるのに。ずるい」
というものであった。
静音がミーコへ向ける嫉妬心は勢いと激しさを増し続けている。
周りの目も問題にならなくなっているのだろう。
耕作はそう思い、頭を抱えたくなった。
それでも耕作は、社内では目だった行動はとらないでほしい、と説得を続けた。
彼の真摯な言葉と真剣な眼差しには静音も逆らえない。
長い説得の末ではあるが、最後には彼女も頷いていた。
それでもまだ、納得できかねる、と言う顔をしてはいたが。
彼女はまた、交換条件として今日だけは一緒にお弁当を食べてほしい、と要求してきた。
これについては耕作も、ためらいながらではあったが了承している。
食事の間中、静音は実に幸せそうな表情で耕作を見つめ続けていた。
ちなみに味の方はと言うと、耕作が今まで口にしたものの中で五本、いや三本の指に入るほど美味しかった。
――――――
静音がちょっかいを出してきたとなればミーコが黙っているはずもない。
それに静音と会食した月曜日以降、耕作は帰宅するたび、ミーコから静音の行動について質問されるようになっていたのだ。
軽く受け流そうとしてもミーコは執拗に問い詰めてきた。
さらに言えば耕作も嘘をつくのは苦手である。
という訳で木曜日の夜、彼は静音が弁当を持って押しかけて来たことを、洗いざらい白状させられてしまっていた。
「あの乳バカ女!」
話を聞き終えたミーコは、もはや意味をなしていない言葉で静音を罵った。
その上、
「じゃあ明日は私がコーサクのお弁当を作る!」
とまで言い出した。
耕作はまず絶句し、続いてミーコをなだめにかかった。
彼女が手作りしたお弁当など、会社の同僚に見つかろうものなら、またどんな噂を立てられるか分からない。
「頼むからそれだけはやめてくれ」
と必死になって、何十分にもわたって説得を続ける。
その結果、なぜか二人の間では「明日、耕作の朝食をミーコが作る」という妥協案が採択されてしまっていた。
翌日、金曜日の早朝。
耕作は炊き立てのご飯の、食欲をそそる香りによって目を覚ました。
「コーサク、起きた?」
気配を察したミーコが声をかけてきた。
耕作はまぶたをこすりつつ返事をする。
ミーコは飛びつくようにして彼に抱きついた後、すぐにキッチンへと引き返していった。
数分後、両手で盆を抱えて戻ってくる。
盆の上には、お椀と大皿がそれぞれ一つずつのっていた。
お椀には白米が、大皿にはマグロの刺身が、それぞれ山のように盛られている。
その様子を見て、耕作は思わず息を飲みこんだ。
白米はともかく刺身の量は、はっきり言って尋常ではなかった。
おそらく五人分はあるだろう。
以前からミーコのため冷凍マグロを買いだめするようにしていたのだが。
見る限り、どうやらそれを全て使い切ってしまったようである。
マグロの刺身は彼女にとって最高のご馳走である。
おまけに解凍して切り分けるだけとなれば、それほど手間もかからない。
ご飯を炊くのも簡単である。
つまりミーコにとっては、これがあらゆる意味で最高の献立なのだろう。
しかしこの量は……。
朝から大量の生魚を目にして、耕作は喉に込み上げるものを感じてすらいた。
だが、
「コーサク、早く食べて食べて」
とミーコに、しかも笑顔で急かされては、断わるすべはない。
耕作は引きつった笑いを浮かべると、無理やりに口を開け、赤い肉片を次から次へと放り込んでいった。
――――――
その日の夜。
仕事を終えた耕作に良太が声をかけてきた。
「河原崎さんだけじゃなく、たまには俺とも付き合えよ」
彼は銀縁メガネに手をかけ、不気味としか表現しようのない笑みを浮かべていた。
初対面の相手であれば間違いなく不快感を抱くであろう友人の顔を見ながら、耕作は考える。
静音との会食は二日後に迫っている。
当日まではそちらに専念したいところだ。
しかし……。
耕作の迷いには理由がある。
実はこの日、彼は既に一度、友人の誘いを断っていたのだ。
昼休み。
いつものように良太から食堂へ誘われた際、耕作の腹の中にはまだ大量の刺身が残っていた。
おかげでとても昼食をとる気にはなれず、良太には一人で食堂に行ってもらったのだ。
あまりに誘いを断り続けるのは気が引ける。
耕作は腕を組み、さらに考えた。
ずいぶん長い間、女性に振り回される日が続いていた。
相手が美人ばかりとは言え、気疲れもしてくる。
たまには男だけで気楽に飲みに行くのも良いかもしれない。
それに帰りが遅くなっても同伴者が男であれば、ミーコの怒りも爆発したりはしないだろう。
耕作は誘いを受けることにした。
それでも念のため釘を指しておく。
「あまり遅くまでは付き合えないぞ」
耕作の返事を聞き、良太はなぜかホッとしたように息を吐いていた。
二人は連れ立って会社を出る。
玄関前に停まっていた一台のタクシーが二人の前にゆっくりと進み出てきた。
良太が自慢げに、自分が手配した車だと説明する。
耕作は感心しつつタクシーに乗り込んだ。
すると運転手は、まだ行き先も聞かないうちに車を走らせ始めた。
驚き、運転手に声をかけようとした耕作を、良太が遮る。
「行き先はあらかじめ伝えておいたんだ。今日は全て、俺に任せておけ」
良太は自信満々と言った感じで胸と腹を張った。
「ずいぶん段取りが良くなったな」
耕作は友人を褒めつつも、同時に漠然とした不安を胸に抱き始めていた。
良太が自分のために、ここまで準備を整えてくれたというのは、単純に喜ぶべきことである。
だが現在、良太の挙動からは普段あまり見慣れない、落ち着きのなさのようなものが感じられるのだ。
耕作の心配は時間がたつにつれて大きくなっていった。
オフィス街を走っていたタクシーが、いつの間にか繁華街をも抜け、住宅地へ入っていった。
しかもそこには小奇麗で大きい、一見して裕福な家庭のものであろうと思われる住宅ばかりが並んでいた。
「おい良太、いったいどこに向かってるんだ」
不安のあまり、耕作は良太を問い詰める。
良太は抑揚を押しつぶしたような、無理に平静を装った声で答えた。
「本当に美味い店は、こういう所に隠れているもんだ」
あり得そうな話ではある。
だが良太は顔中に大量の汗を流し、目も耕作から逸らしていた。
明らかに様子がおかしい。
耕作は正体不明の危機感に突き動かされ、運転手に車を止めるよう声をかけた。
だがその要求は受け入れられなかった。
運転手は耕作の制止をことごとく無視したばかりか、むしろ速度を上げて車を進めていった。
車はやがて大きな門扉を通過する。
何処かの住居の敷地内に入り込んだのだ。
その住居には、この高級住宅街の中でも飛び抜けて広い敷地面積があるようだった。
大きく開いた門を通過すると、手入れが施された樹々が森のように広がっている。
中央にはこれまた幅の広い一本道が走っていた。
タクシーはその道を進み続け、大きな白い住宅の前で停車した。
住宅の前には数名の人影が居て、タクシーを出迎えるように並んでいた。
彼らの中心にいる人物を見て、耕作は絶句する。
静音がいたのだ。
彼女はいつもの黒いパンツスーツではなく、華やかなピンクのワンピースをまとっていた。
いつもの凛とした雰囲気に可愛らしさも合わさり、美しさはいっそう際立っていた。
呆然として言葉もない耕作に、良太が声をかけた。
「最近、おまえが冷たい。なんとか話し合う機会を作りたいから、協力してほしい。と、河原崎さんに相談されたんだ」
……そういうことか。
自分を誘い込むために良太を利用したのか。
となるとここは彼女の家なのだろう。
と、耕作は理解した。
静音にしてみれば、良太を自分の計画に協力させるのは、それほど難しいことではなかっただろう。
彼は元々、耕作と静音が付き合っていると思っていた。
耕作が否定しても半信半疑であったのだ。
おまけに昨日、静音は弁当を持って耕作のオフィスまで押しかけてきている。
もはや疑う余地はない、と思っても仕方がない。
となると静音は、耕作への求愛と同時に良太を味方とするため、わざわざ目立つように行動したのかもしれない。
その考えに至り、耕作は眉間に皺を寄せた。
良太が深い溜め息と共に言葉をかけてくる。
「河原崎さんにどんな不満があるのか知らないが、あんな良い人はおまえにはもったいないぐらいだ。自分の身も振り返って、よく考えて、話し合ってみろ」
耕作は温厚ではあるが、聖人君子ではない。
自分を信じず厄介な事態を招いてくれた友人に対し、殴る、あるいは怒鳴りつけたいという気持ちはあった。
だが良太は耕作の将来を考え、友情のために骨を折ってくれたのだろう。
まあ多少は自分が出世することも考えているかもしれないが。
耕作にとってはありがた迷惑な話である。
それでも彼は、友人を責める気にはならなかった。
結局は自分の態度が曖昧だった、覚悟が足りなかったということなのだろう。
良太に八つ当たりしたところで何の解決にもならない。
自分が蒔いた種だ、責任は自分で取る。
耕作は今回も理性で感情を抑え込んでいた。
「……ありがとよ」
良太に礼を述べると車を降り、静音と向かい合った。




