愛は貪欲 一
耕作のアパートへと続く坂道は、街灯と月の明かりに照らされているにもかかわらず、暗く、静かだった。
彼の足音だけが響き続けている。
結局、遅くなってしまった。
ミーコは心配しているだろうな。
と、耕作は考えた。
にもかかわらず、彼の足並みはアパートに近づくにつれ、速度を落としていった。
今日の出来事を彼女にどう説明すれば良いのか、考えがまとまらなかったからだ。
基本的には起きたこと言われたことを、正直に伝えるつもりだった。
だが、ミーコの影響で耕作に被害が及んでいる、などと話せば、彼女はショックを受けるだろう。
信じられない、そんなはずはない、と怒り出すかもしれない。
それに静音に対して、あまり敵対心を抱かせないようにもしたかった。
静音が天使から幼馴染に戻ったのは、和解のチャンスでもある。
全面的に仲良くなるのは難しいだろうが、まっとうな話し合いができる程度には、仲を修復しておきたかった。
考え続ける内に、耕作はアパートへ到着してしまう。
結局、結論は出ていない。
これ以上は、考えたところで堂々巡りだろう。
後は場の流れと、ミーコの機嫌を見て、どう話を進めるか判断するだけだ。
耕作は決断した。
大きく深呼吸し、ドアを開ける。
「ミー……」
「コーサク!」
耕作の足音を聞き、待ち構えていたのだろう。
ミーコが、猛烈な速さで飛びついてきた。
そのまま耕作の胸元に、首筋や頬をこすりつける。
あまりの勢いに、耕作は二歩ほど後退してしまっていた。
ミーコはさらに、耕作を玄関へ押し倒そうとする。
ところが、
「……ニャ?」
と呟くと、急に動きを止めた。
続いて耕作に抱き付いたまま、さかんに彼の胸元を嗅ぎまわる。
それから彼の肩や腕、さらには下半身に至るまで、全身を嗅ぎまわった。
「どうした?」
いつもと異なる様子のミーコを見て、耕作は心配し、声をかけた。
ミーコは彼の胸元に顔を埋め戻し、低い声で問い返した。
「コーサク、なにがあったの?」
「え?」
「コーサクから、あいつの臭いがする」
ミーコの宣告には、暗く重い響きがあった。
耕作の背中に、霜柱が立つ。
それは恐怖によって引き起こされた、というだけのものではなかった。
ミーコの周囲で、冷気が渦を巻き始めていたのだ。
玄関先にある靴箱や、はては台所にある食器類も、振動を始めている。
ミーコは怒り、既に超能力を発動させていた。
耕作もすぐにそれに気づき、
「しまった!」
と、今更ながら己のうかつさを呪った。
ミーコの言う「あいつ」とは、静音のことであろう。
静音とは、つい先刻まで会っていただけではなく、昼間には抱きつかれていた。
そのため彼女の香りが、今も耕作の身体に残っていたのだ。
ただそれは、耕作に限らず、常人であれば気が付かないほどのものである。
しかしミーコの鋭敏な嗅覚が、逃すはずもない。
相手が静音であればなおさらである。
底知れない恐怖を感じ、ミーコの能力を甘く見ていた自分を呪いつつ。
耕作はミーコの両肩に手を置いた。
今もうつむき、肌に爪を立ててくる彼女をなだめながら、部屋の中へといざなう。
「話を始めるには最悪の状況かもしれないな、これは」
と、彼は心の中で嘆息していた。
「あの鳥公!」
ミーコは一連の話を聞き終えると、即座に怒声を上げた。
自分が傍にいない間に、愛する男に手を出された。
そのうえ、自分によって彼が被害を受けているなどと、吹き込まれもした。
静音に対する怒りは、ミーコの沸点をはるかに凌駕していた。
部屋の中では、包丁やらドライバーやら、様々な凶器が宙を乱舞し始めている。
耕作は、彼女の有無を言わせぬ迫力に、圧倒されていた。
だが、このまま放置しておくわけにもいかない。
ミーコの怒気をおさえるため、わざと的外れな言葉をかける。
「ミーコ、今のしーちゃんは、もう鳥……天使さんじゃないぞ」
「ニャ!?」
思いもかけなかった指摘を受け、ミーコは面食らった。
爆発していた怒気が方向性を失い、頭の中を駆け巡る。
困惑する思考の中。
それでも彼女は憎い相手を罵倒する、新たな言葉を見つけ出した。
「うー……じゃあ、あのホルスタイン! 乳でか女!」
……。
あまりにも子供じみている。
というよりも、ミーコはひょっとして、胸の大きさがコンプレックスなんだろうか。
と、耕作は考えた。
呆れると同時に、彼の恐怖心は薄れていく。
冷静な目を、眼前にいる少女の胸元へ向けた。
ピンクストライプのパジャマに覆われている少女のふくらみは、歳相応には発達している。
少なくとも、耕作はそう思っている。
まあ静音に比べると惨敗とまではいかなくても、大敗ぐらいはしているだろうが。
と、呑気かつよこしまな考えをも、彼は抱いた。
「う~」
ミーコが鋭く睨み付けてきた。
耕作は慌てて、胸から視線を外し、彼女の頭を撫でる。
ただミーコにしてみれば、この場合なぐさめられても、嬉しくも何ともなかった。
「五年後には追いつくから!」
負け惜しみとしか取れない言葉を発し、耕作に抱きつく。
同時に、周囲に舞っていた凶器が、乾いた音を立てて床に落ちた。
耕作は、可能性を感じさせるような気がしないでもない少女の胸の感触を、身体で感じつつ、
「とりあえず、先のことを話し合える程度には落ち着いてくれたようだ」
と、安堵していた。
「それでいつ、あの乳でかと会うつもりなの?」
「うーん」
二人はベッドの上に並んで座りながら、相談している。
耕作は髪の毛をかき回し、考えるそぶりを見せた。
だが、それも長い時間ではなかった。
「次の日曜日にするつもりだよ」
「どこで会うの? やっぱりあいつの家?」
「いや、どこかのレストランに個室を予約して、そこで会うつもりだ」
いきなり静音の家に行くのは、早計にすぎる気がする。
まずは耕作の魂が汚れているといった辺りの、詳しい事情を聞いておくべきだ。
その上で、なにが最善の方法なのかを、皆で話し合う。
それが耕作の考えだった。
それに静音とかかわりの浅い場所であれば、以前のように薬を混入されるといった、罠を仕掛けられる可能性も少なくなる。
今の静音は天使ではなくなったが、万が一は考えておくべきだ。
この考えは、彼女には失礼にあたるものなので、心が痛む。
だがミーコも同席する以上、万全を期さなくてはならないだろう。
耕作は説明を終えた。
ミーコは横から彼を見上げつつ、問いかける。
「でもそうなると……」
「ん?」
「私も外出するんだよね」
「うん」
「大丈夫なの?」
ミーコは心配気な顔をしていた。
ただそれは、初めて外の世界に出る不安の表れ、というものではない。
人の目について騒動になり、耕作に迷惑がかかるのではないか、という点を彼女は心配していたのだ。
耕作はミーコの頭にある二つの突起物、猫耳に目を向け、考える。
たしかに彼女が世間に見つかってしまえば、それこそ世界中がひっくり返るような大騒ぎになる。
耕作にとっても悩みの種であった。
帽子をかぶらせ、猫耳と三色の髪の毛を隠し、サングラスとマスクを着用させる。
そこまでやれば、猫の面影も、桁違いの美貌も隠せるだろう。
もっとも、見るからに怪しげな人物として、逆に周囲の注目を集めてしまうかもしれないが。
「まあ、できるだけ近場に店を見つけて、出歩く距離も少なくすれば、大丈夫じゃないかな」
耕作は自分の不安も振り払うため、明るく声をかけた。
ミーコも弾んだ声で、彼に話を合わせる。
「うん。それに夜なら、暗くて目立たないかもしれないし……」
「いや、ミーコ。出かけるのは昼間にするつもりだよ」
「ニャ!?」
ミーコは口を丸くした。




