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変化

 耕作はこの日も、昼休みには良太と食堂に行くつもりだった。

 ところが良太は、急な来客の対応をしなければならなくなっていた。

 耕作は食堂に行く気も削がれ、外出する。


 季節は春。

 陽光は暖かく、オフィス街にあっても、どこからか樹々の香りと鳥のさえずりが流れてくる。

 心地良い風を受けた耕作は、外で食事をするのも悪くない、と思っていた。

 コンビニで弁当を購入した後、適当な場所がないかと、辺りを見回す。


 その時。

 穏やかな空気を切り裂く、高く鋭い悲鳴を、耕作は聞いた。

 反射的に声の出所に目を向ける。


 横断歩道の中央に、一人の女性がいた。

 そこに大型のトラックが、猛スピードで突っ込んできている。


 歩行者用の信号は、青だった。

 それでも運転手が居眠りでもしているのか、もしくは機器トラブルでもあったのか、トラックはスピードを緩める気配がない。


 しかし深く考える余裕など、耕作にはなかった。

 手にしていたレジ袋を放り投げ、間髪入れず飛び出す。


 彼の脳裏には、昨年同じように眼前で大型車両に跳ね飛ばされた、父親の姿が浮かんでいる。

 目の前で人が死ぬなど。

 たとえそれが他人であっても、そんな経験はもうまっぴらだった。


 だが冷静に状況を見れば、女性を助けるのは絶望的と言えた。

 飛び出した時点で女性との距離は、耕作よりもトラックの方が近かったのである。

 彼我の速度の差を考えれば、なおさら追いつくはずもない。

 しかしそれでも、耕作は足を止めなかった。


 耕作の視界が、突如として白く染まった。

 トラックが爆発したのではない。

 太陽が生まれ出でたかの如く、巨大な光の塊が、いきなり耕作の眼前に現れたのだ。

 耕作は眩しさに、思わず瞼を閉じた。


 数秒後、目を開ける。

 耕作はいつの間にか、腕の中に先の女性を抱え、歩道上で突っ伏していた。

 自分でも何が起きたのか理解できず、呆然とする。


 周囲の通行人、特に女性の同僚らしき人々から、驚きと称賛の言葉が雨の様に降り注いできた。

 しかしそれらの声は、耕作の耳には入ってこない。

 女性がうつ伏せになったまま、全く動かなかったので、そちらに気を取られていたのである。


 ショックで失神したのかもしれない。

 耕作はそう思い、救急車を要請するよう、周囲に呼びかけようとした。


 しかし、彼が声を発するよりも早く。

 腕の中で、女性が動き始めた。

 意識を取り戻したのか、起き上がり、耕作に向き直る。

 彼女の顔を見て、耕作は息を飲んだ。


 そこにあるのは、白く美しい肌。

 黒く澄んだ大きな瞳。

 長い髪は、黒絹のように麗しく流れていた。


 身体は女性らしい起伏に富んでいる。

 有名ブランドのスーツに包まれていても、スタイルの良さがはっきりと分かった。


 完成された容姿は、ともすれば近寄りがたい雰囲気すら、感じさせそうではあった。

 しかし柔らかそうな口元が、それを絶妙なバランスで食い止めている。

 まぎれもない、掛け値なしの美女である。


 そしてこの女性を、耕作も良く知っていた。

 彼女の名は、河原崎静音(しずね)

 耕作が勤める会社の創業者一族、その令嬢である。





「いや、そんな大したことしたわけじゃないですし……」


 お礼に昼食を御馳走させて欲しい。

 という静音からの申し出を、耕作はそう言って断った。

 しかし静音は半ば強引に、同僚との約束も反古にして、耕作を何処かへと連れていく。


 そして現在はというと。

 耕作はこれまで足を踏み入れたこともない、高級志向の洋食店にいた。

 そこで横文字の、長ったらしい名前のランチを食べながら、居心地の悪さを感じ、沈黙に耐えていた。

 やはり女性を相手にすると、何を話せばいいのか分からなくなってしまうのである。


 耕作は父親を、深く尊敬していた。

 だがこういった、女性に対する苦手意識を植え付けられた点についてだけは、恨みがましい感情を抱かざるを得ない。

 父親本人はともかく、息子まで母親への愛情に殉じさせる必要があったのだろうか。

 などと愚にもつかないことを、彼は考えていた。


 ふと我に返る。

 女性を前にして、一人思考に沈んでしまっていた。

 失礼なことをしてしまったと、激しく後悔する。


 つまらない男ね、と、静音もさぞ呆れているだろう。

 そう思い、改めて彼女の顔を見直した。


 耕作の予想は外れる。

 静音は微笑みを絶やさないまま、彼を眺め続けていたのだ。


 さすがにこれは、状況を打開しなければならない。

 耕作は決心し、口を開こうとした。


 だがその行為は、鈴を転がすような、静音の澄んだ声によって遮られた。


「女性と話すのが苦手なのでしょう? 無理はなさらないで下さい」


 自分の情けない態度を見て、憐れみを持ったのだろうか。

 耕作はそう思い、少なからず落ち込んだ。


「いえ、違うんです」


 心情が、表情にも表れていたのだろう。

 耕作の顔を見て、静音は慌てて発言を訂正する。


「私、よく存じ上げてます、吉良きらさんのこと」

「え?」


 素っ頓狂な声を、耕作は上げてしまっていた。

 吉良というのはつまり、彼の名字だった。



 ――――――



 その日の夜。

 耕作はいつもの坂道を、小走りというよりも小躍りといった方が良いであろう足並みで上っていた。

 浮足立ち、満面の笑みを浮かべる彼の姿をもし良太が見れば、普段の自分を棚に上げ、背中を蹴飛ばしたに違いない。

 耕作の脳内は、今やお花畑で埋まり、昼間の静音との会話を延々と再生していた。


 静音は確かに、耕作のことを知っていた。

 それも、噂話を聞いている、という程度ではない。

 耕作の所属部署や交友関係から、趣味、それに食事の好き嫌い、その他諸々に至るまで。

 ほとんど全てと言っていい事柄を、知っていたのだ。


 しかも驚愕した耕作に対し、彼女は、


「以前から、ずっと吉良さんのことを見てましたから」


 と告げたのだ。


 女性経験が皆無に近い耕作といえども、それが告白とほぼ同義の台詞だということは分かる。

 さらに彼女は、切っ掛けを作ってくれたドライバーには感謝している、とまで言っていた。


 静音は耕作のコンプレックスを知った上で、彼に好意をもってくれたのだ。

 そうと分かった時、耕作の緊張もほぐれた。

 それからの彼は、自分でも信じられないほど、静音に話しかけられるようになっていた。

 二人の距離は、あっという間に縮まった。


 お互いにアドレスを交換すると、明日以降も会う約束をして、二人は食事を終える。

 別れ際に小さく手を振っていた静音の姿も、耕作を興奮させた。


「このような出会いをもたらしてくれたのだから、やはりあのドライバーには感謝しなければならないな。河原崎さんと結婚することになったら、招待するべきだろうか……」


 などと気の早すぎることまでも、考えていた。


 耕作は自分でも気が付かないうちに、自宅に到着していた。

 有頂天になって、周りが見えなくなっていたらしい。

 特に反省することもなくドアを開け、声を出す。


「ミーコ、帰ったぞー!」





 異変にはすぐに気づいた。

 いつもなら間髪入れず飛び出してくるはずの、ミーコの姿がない。

 耕作は今更ながら、今朝ミーコの様子がおかしかったことを思い出した。


 浮かれた気分は、一瞬で吹き飛んだ。

 鞄を投げ出し、キッチンを駆け抜け、奥の扉を開けた。

 先とは比較にならないほどの大声で叫ぶ。


「ミーコ!」


 扉を通過すると同時に。

 耕作は部屋の中央で座り込む、裸の少女を発見した。


 少女は、十代前半ぐらいだろうか。

 白い肌は、きめ細かく、暗闇の中でも光り輝くように美しい。

 そして彼女に対し本来問うべき、「誰だ?」という言葉は、耕作からは出て来なかった。


 なぜなら。

 少女がなびかせる白・茶色・黒の、腰まで届く三色の頭髪に、見覚えがあったから。

 自分を見つめる、途方に暮れたような黄色い右目と青い左目は、よく知ったものであったから。

 その瞳の奥底にある、自分に向けられた絶大な信頼と愛情を、感じ取ったから。


「コーサク……」


 それはミーコが初めて、耕作の名を人語で呼んだ瞬間であった。

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