それぞれの決意 一
「ミーコ」
「なに?」
「これ、どうしようか」
静音が去った後の部屋の中。
耕作はベッドで横になりながら、隣で同じように横たわり、身体をすりよせているミーコに尋ねた。
彼が目で指し示した周囲の情景は、惨憺たるものだった。
台風に襲われたかのように、ありとあらゆる家具、物品、さらに衣服までもが散乱していた。
現在ふたりがいるベッドにしても、普段の壁際から、部屋のほぼ中央まで移動している。
さらに冷蔵庫が逆さまになっているのを見た時には、耕作も思わず絶句していた。
「うー……」
惨状を引き起こした張本人のミーコは、両手の人差し指を突き合わせ耳も垂らし、困ったような唸り声をあげた。
耕作は苦笑し、彼女の頭を撫で、優しい声をかける。
「まあ、幸い今日は休みだし。二人で片付ければ、案外はやく終わるんじゃないかな」
「ニャ!」
ミーコは嬉しそうに鳴いた。
耕作を抱きしめる腕に、力を込める。
愛情に満ち溢れた表情で、首筋を耕作の胸元へこすりつけた。
しばらくすると、ミーコは身体をせりあげ、耕作に覆いかぶさる格好になった。
愛する男の顔を、真正面から見つめる。
「コーサク……」
「……ミーコ」
ミーコの瞳は潤み、頬は赤い。
息遣いも荒くなっている。
発情の色が、全身で露わとなっていた。
わずかに舌を覗かせた可愛らしい口唇が、耕作に迫っていく。
しかし耕作は唇を重ねられるよりも早く、口を開いた。
「交尾ならしないぞ」
「ニャ!?」
予想外の言葉を聞かされたミーコは、身体を起こし、抗議の声を上げる。
「なんで!? 今すっごく愛が盛り上がって、頂点に達した感じになったのに!」
「なんだそれは。静音さんが言ってただろ。ミーコと恋人になると、悪魔に魂を取られるのが確定するから駄目」
「そ、そんな!」
恋情の頂から、奈落へと突き落とされて。
ミーコは目に涙すら浮かべて耕作にすがりつき、懇願を始めた。
「じゃあ先っちょだけでいいから」
「駄目」
「じゃあ指二本だけでいいから」
「駄目」
「じゃあ、指の第一関節まで」
「駄目ったら駄目」
「そ、それならせめてキスだけでも……」
「それも駄目」
「なんで!?」
キスしたら俺が我慢できなくなる。
とは、さすがに耕作には言えなかった。
「とにかく駄目」
「生殺しだニャー!」
ミーコの悲痛な叫びが、部屋中に響き渡った。
耕作は黙ってミーコの頭を抱え、両手で抱きしめる。
なおも行為を迫り続けるミーコの言葉を聞き流しつつ、思考の海へ沈んでいった。
色々なことがありすぎた。
問題は解決しないどころか、余計ややこしくなった気がする。
それでもこれから自分がやらなければならないことは、はっきりしている。
ミーコの魂が悪魔に取られるのを、阻止することだ。
そのためにも契約が完了する、つまりミーコと恋人になるのは避けなければならない。
とは言っても、どこまでミーコの誘惑に耐えられるだろうか。
この点については、自分でも全く自信がない。
いっそのこと、自分も地獄へ行く方法を探した方が良いのだろうか。
そうすればミーコが悪魔に魂を取られた後も、傍にいてあげられるかもしれない。
二人一緒なら、どんな環境でも少なくとも寂しくはないのではないか。
……馬鹿な考えだろうか。
「こんど静音さんに会ったら、どうすれば地獄へ行けるのか聞いてみようか。素直に教えてくれるとは思えないし、正直に言えばしばらくは会いたくないんだけどね……」
その声は小さすぎて、ミーコの耳にも届かなかった。
――――――
静音は帰宅すると、すぐに自室へと向かった。
部屋に入る直前、つき従っていた加藤へ声をかける。
「こんな時間に誰が来るとも思えないけど。万が一来客があっても、取り次ぎは一切不要です。誰一人、私の部屋へは入れないように」
「かしこまりました」
恭しく返事をする加藤に対し、静音は冷え切った眼光を浴びせた。
「こんど裏切ったら、容赦しないわよ」
剃刀で切りつけてくるような声を受け、加藤は大量の冷や汗を流す。
最敬礼をすると、扉が閉まってからもなおしばらくの間、顔を上げなかった。
「そろそろのはずだけど……」
静音は個室としては広すぎる部屋の中央で、スーツ姿のまま何かを待っていた。
照明は落とされており、全てが闇の中にある。
やがて部屋の片隅に、蝋燭の炎ほどの、ごく小さな光が現れた。
その光は、あっという間に光量と大きさを増していく。
四方八方を明るく照らし出すと、やがて姿を変え、翼を生やした少女となった。
少女の外見は、静音の正体である天使と同じぐらい美しかった。
年齢は十代後半ほどに見える。
彼女は翼を羽ばたかせて浮き上がると、ゆっくりと移動し、静音の前で着地した。
静音が顔をほころばせ、声をかけた。
「お久しぶりね、サラサ。お元気そうで何よりだわ」
「ああ、まったくもってしばらくぶりだ」
サラサと呼ばれた天使は微笑みつつ答えた。
しかしすぐに笑みをおさめると、片眉を上げ、怪訝な顔を見せる。
「君も元気というか、そんな姿になっているとは。人間と同化したのか、それは」
「これについては、またの機会に説明するわ」
静音はサラサへ椅子に座るよう勧め、自身はベッドに腰かけた。
それから後、改まった口調で語りかける。
「それより私が依頼した件について、報告を頂けるかしら」
「随分と性急だな。まあいいだろう、ジーリア、それでは……」
ジーリア。
それは、静音の正体である天使の名だ。
ところが彼女は自分の名を呼ばれた今、しっくりこないような、妙な違和感を覚えていた。
ごくわずか、眉間に皺を寄せる。
サラサも静音の様子に気づいていた。
「どうかしたのか?」
再び怪訝な顔で問いかける。
しかし静音は軽く頭を横に振り、問題ないという意志を示した。
サラサは腑に落ちない気持ちを残しつつ、報告を始める。
「分かった。それではジーリア、依頼のあった二人が死後どうなるかを知りたい、ということだったな」
静音は首肯する。
サラサの言う二人とは、当然ながら耕作とミーコのことである。
静音は先に二人に術式を施して彼らの情報を集め、光と化し、天国にいたサラサへと送っていたのだ。
彼らが死後、どのような運命を辿ることになるのか。
それを調べてもらったのである。
「まず、君が言うところの化け猫だが。魂は悪魔に取られるから地獄行きだな」
予想通りの返答を聞き、静音は唇の両端を上げた。
「やはりね。でも、悪魔との契約はまだ終了していないわ。今すぐ死んだとしたらどうなるのかしら?」
「君が分からないとは思えないが」
「天国の正確な判断を知りたいのよ」
静音の問いは、もしあのとき耕作が説得を受け入れ、ミーコが殺されるのを許していたらどうなっていたか、ということでもある。
サラサは肩をすくめ、答えた。
「今すぐ死んでも悪魔によって化け猫、つまり妖魔にされてしまっているからな。地獄行きだ」
「契約が終了しようとしまいと関係ない、ということね?」
「そうだ」
サラサは断言し、さらに説明を続けていく。
ミーコは悪魔によって擬人化された時点で、その身に邪悪な力を帯びた存在となってしまっていたのだ。
俗に妖魔と呼ばれるその存在は、悪魔の眷属でもある。
彼らは天国からすると不浄な生き物となるので、受け入れる訳には行かない。
つまるところミーコの魂は、どうあがいても地獄に落ちるのである。
ミーコが耕作の恋人になった場合は、魂は契約通り、死後すぐに悪魔のものとなる。
その前に死ねば、しばらくは地獄をさまようだろうが、結局は数多くいる悪魔、いずれかの手に落ちるだろう。
違いはその程度にすぎない。
説明を終えたサラサの前で、静音は深く頷いた。
彼女にとってはしごく当然の話であった。
しかしこの事実を耕作に教えれば、ミーコが殺害されるのを先刻以上の覚悟で阻止しようとしただろう。
だから伏せておいたのだ。
得心したような静音の姿を見て、サラサは再び口を開いた。
「では続いて、吉良耕作という男だが……」
静音の心臓が、大きく跳ね上がった。




