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天使、かく語りき 三

「そうですか。私が去った直後に、悪魔が来ていたとは……」


 静音は耕作の説明を聞き終えると、唇を歪め、悔しそうに呟いた。

 彼女にとっても悪魔の行動は、予想外だったのだろう。


「しばらくここに残っていれば良かったのかしらね……まあ、もう遅いけど。ありがとうございます、よく分かりました」

「どういたしまして」


 耕作が話を終えたので、今度は静音が事情を説明する番となる。

 彼女は初めに、自分が天使であることと、耕作の母が亡くなった日に彼を見初め、それからずっと見守り続けていたという事実を告白した。


 この時点で、耕作は既に頭を抱えてしまっている。

 ミーコが猫だった頃、彼はその前で様々な痴態を晒しており、後日それを思い出した時には思わず赤面していた。

 ところが静音には、それ以上の痴態や醜態を見られていた訳である。

 なにしろ自分の半生を覗かれていたのだ。

 首を釣りたくなるような恥ずかしさを、耕作は覚えていた。


 そして静音にしても、耕作とは別の意味で恥ずかしかったらしい。

 恋心を告白した少女のごとく頬を赤らめ、うつむいていた。


「それにしてもなんで今頃になってから、俺の前に姿を見せたんですか」


 憔悴しきった顔で、耕作は尋ねた。


「仕方がなかったんです。私たち天使には、神様に定められた規則があります。それによって、姿を現す訳にはいきませんでした」


 申し訳なさそうな顔で語った後、静音は詳しい説明を始めた。


「天使には使命があるんです」


 使命とは、人間でいうところの仕事のようなものである。

 数多くいる天使が、それぞれ異なる使命を神から託されているのだ。


 そして使命を遂行するとき以外は人間の前に姿を現してはならず、また力を振るってはならないともされていた。

 ただし、悪魔に攻撃された、というような非常事態であれば別である。


「そして私は、神様から三つの使命を託されていました」


 神が静音に託した使命のうち一つ目は、


「美しく純粋な心の持ち主を見つけ、その願いを神様まで届けること」であった。


 さらにその願いは、直接本人の利益になるものであってはならない、とされていた。


 本人に直結する願いだと、私利私欲となってしまう。

 従って美しい心の持ち主にはふさわしくない。

 他者の幸せにつながるものでなければならないのだ。


「あの日、そこにいる化け猫が抱いた『耕作さんに彼女ができますように』という願いは、この条件に当てはまりました。だから神様までお届けしたんです」


 静音が暗い目をミーコに向ける。

 ミーコは座り込んだまま、低い唸り声をあげ、静音を睨み返した。


 二人の様子を見つつ、耕作は「なるほど」と相槌を打った。

 それから後、心に浮かんだ疑問を静音にぶつける。


「でも静音さんは、天使として勤めながら、人間としての生活も送っていたんですか?」

「いいえ。それはこれから説明いたします」


 静音は再び視線を耕作に向け、説明を続ける。


 静音に託された使命の二つ目は、

 

「届けた願いごとが神様に許可されたら、それを実現させること」であった。


 耕作はまたしても疑問を抱く。


「つまり神様は許可するだけで、実際に願いごとをかなえるのは静音さんたちなんでしょうか」

「その通りですわ」


 弾んだ声で、静音は答えた。


 神様も、投げっぱなしな対応をするんだなあ。

 と、耕作は考えた。


 もっとも天国と人間界、二つの世界を治めているのであれば、願いごと一つ一つをかなえて回るのは、忙しくて無理なのかもしれない。

 それで全能と言えるのか、という気もするが。


 思考を続ける耕作の前で、静音の話は核心へと迫っていく。


「そこで神様から許可を得た私は、耕作さんに彼女を作ることにしました。……正確に言えば私が彼女になる、そのつもりでした」


 その声音には耕作に向けられた、執念にも似た愛情がにじみ出ていた。

 耕作は思わず、背筋に霜柱をたてている。


「耕作さん、そのためにこの身体を手に入れました。この身体の本来の持ち主、河原崎静音は、あの事故で死ぬ運命だったんです。それを変更して助けた上で、魂には肉体から出ていってもらいました。彼女は善行を積んでいたので、天国に行きましたわ」


 耕作は言葉を失った。

 ただし心のどこかでは「やはりそうだったか」とも考えている。


 あの時の状況を思い返すに、天使が発揮したであろう不思議な力の助けがなければ、静音は救えなかったはずなのである。

 その点は、耕作にも納得できた。


 だが、まだ生きている人間の魂を抜き取ってしまうという手法には、やはり慄然とせざるを得ない。

 自分の身体を奪われて、静音自身の魂は何を思ったのだろうか。

 やりきれない思いを抱きつつ、耕作は問いかける。


「魂を抜き取るなんて、そんなことが可能なんですか」

「普通なら無理です。でも本来は死ぬ運命……寿命を迎えた人間ですから、それなら簡単です」


 静音は非情なまでに落ち着いた口調で述べ続ける。


「その後は抜け殻になった身体に私が入り込み、記憶を合わせれば、作業は終わります」


 過去の行いを語っているうちに、耕作への情念も燃え上がってきたのだろうか。

 静音の黒い目は、今や濃暗色となっていた。


 耕作はその深く暗い目に吸い込まれるような、不思議な感覚を覚えていた。

 おぼろげになっていく意識の中、静音の言葉だけが鳴り響いていく。 


「耕作さん、長い間待ち続けて、やっと訪れた機会だったんです。私は貴方と一つになりたかった。そのために、心の美しい者が貴方の幸せを願うのを待った。それも、ただの幸せでは駄目だったんです。私が貴方と結ばれるきっかけにならなければ……。そしてついにあの日、その機会が訪れたんです。あの日、あの瞬間、私の心は歓喜で満たされました。そこの化け猫に、この点についてだけは感謝しています」


 静音は話しながら、ゆっくりと耕作に近づいている。

 耕作は身じろぎすらできないまま、その姿を眺めていた。

 彼は今、静音の術中に落ちようとしていた。


 静音は言葉の端々に、密かに情愛の言霊を込めていたのだ。

 それによって耕作を、自身の愛欲に満ちた底なし沼へ、引きずり込もうとしている。


 耕作には、その圧倒的な力に抗うすべはないかと思われた。

 静音の艶やかな声音と深い瞳に魅入られ、そして畏れるあまり、蛇に見込まれた蛙のようになってしまっていた。


 しかし、その時。

 自分に向け、必死に呼びかける声を、耕作は聞いた。


「コーサク、駄目だニャ! しっかりして!」


 ミーコが拘束された身体を懸命に動かし、耕作に向け這いずっていた。

 目には涙を浮かべている。

 青と黄の瞳を覆う透明な雫を見て、耕作は我に返った。


「待ってください。まだ質問があります」


 頭を振りつつ、右手を前に出し、静音の動きを掣肘する。

 静音は一瞬だけ眉間に皺を寄せたが、すぐに表情を緩めると、穏やかな顔で、


「なんでしょうか?」


 と、尋ねた。


「ミーコのことです」


 耕作は床に転がるミーコへ目を向けた。

 ミーコからは、縋り付くような視線が返ってくる。

 耕作は優しく、そしてどこか悲し気な笑みを彼女に送った後、再び静音に問いかけた。


「静音さん。貴女の力でミーコを完全な人間にするか、でなければ元の猫に戻すことはできますか?」

「コーサク、そんな!」


 ミーコは叫び、さらに悲鳴をも上げた。

 悲痛な響きは部屋中を覆いつくす。

 完全な人間になるのはともかく、猫に戻るのは彼女の本意ではないのだ。


 静音はミーコを一瞥した後、頭を振った。


「それは無理です。元の姿に戻せるのは、魔法をかけた悪魔本人だけです」

「……では、悪魔に魂を奪われる、という約束を反古にするのも無理ですか?」

「いえ、それは簡単ですわ」


 楽しげな声で、静音が返答する。

 耕作の心を埋め尽くしていた暗雲が、あっという間に吹き飛んだ。

 ミーコを救う方法がある。

 その希望が、彼の全身に再び活力を与えたのだ。


 だがそれも、ごくわずかな間のことだった。


「耕作さん。貴方とその化け猫は、まだ男女の仲にはなっていませんね? もしそうなっていたら、貴方の性格からして元の猫に戻そうとは考えないはずですから」

「はい」

「じゃあ、今すぐこの化け猫を殺しましょう。貴方の彼女になる前に死ねば、悪魔との契約は履行不能になります。魂を奪われるという約束も、当然無くなるはずです」


 耕作は絶句した。

 死人のように青ざめ、片膝をつく。


 その様子を見たミーコもまた、ショックを受けている。

 ただし彼女は、自分が助からないという事実を告げられたことよりも、それによって耕作の心がひどく傷ついたことを悲しみ、嘆いていた。


「コーサクをいじめるな!」


 何度も絶叫し、泣きわめき、静音に罵倒の言葉を浴びせかけた。


 静音は心底呆れたような顔を浮かべる。

 ミーコに向けて手をかざし、再び超能力を発動させようとした。


 だがその動きは、苦渋に塗れた耕作の声によって遮られる。


「いや、ミーコを殺すなんて冗談じゃない」


 耕作はうつむいたまま、重い口を開いていた。

 静音は彼の前にかがみこみ、諭すように話しかける。


「でもそれ以外、方法はないんですよ?」

「……静音さん、悪魔に取られた後、魂はどうなるんですか?」

「分かりません。魂をどのように扱うのかは、悪魔によって異なります。でも間違いなく絶望が訪れる、とだけは言えますわ」


 苦虫を数十匹噛み潰したような表情を、耕作は浮かべる。

 それでも彼は顔を上げ、静音を真正面から見据えた。


「だとしても、殺すなんて冗談じゃない。そんなことがミーコにとって幸せなはずはない。俺が解決する方法を見つけます」

「どうやって?」

「……今はまだ、分かりません。でも、必ず見つけ出します。ミーコは俺が幸せにする。約束したんです」


 静音の周囲に、目視できるほどの勢いで、殺意のオーラが立ち上った。

 耕作の心をここまで捉えた恋敵に対する、嫉妬心の現れである。


 しかし彼女はこの時、自分を真っ直ぐに見つめてくる耕作の、少年の面影を残した力強い眼差しに、抗い難い魅力を感じていた。

 最愛の男の、これまで見た中で最も凛々しく美しい瞳が、そこにあった。


「この瞳を、眼差しを、私一人で独占したい」


 心に浮かんだ欲望を実現させるため、静音は行動を始める。


「耕作さん、最後にお話しすることがあります」


 静音は立ち上り、神に託された三つ目にして最後の使命の内容を、耕作に告げる。

 それは、


「悪魔と、その企みを見つけ出し、排除すること」であった。


 つまり今回で言えば、悪魔によって人間と化したミーコが排除の対象となる。


「やはり私の結論は、変わりませんわ」


 静音が冷徹に告げるや否や。

 耕作の両手が、見えない力で後ろ手に回された。


「静音さん、待っ……!」


 抵抗する間もなく、耕作の両手首と両膝は、透明な鉄輪のようなもので拘束されてしまう。

 彼はバランスを崩し、床に転がってしまった。


「コーサク!」


 耕作の危機を見て、ミーコは自身も拘束されているにもかかわらず、叫び這いずりながら、超能力を発動させようとする。

 すると静音は、即座に右掌をミーコに向けた。


 壁に肉体が激突する、重く激しい音が、部屋中に響き渡る。

 ミーコは壁際からずり落ちると、またしても苦痛のため、呼吸ができなくなってしまっていた。


 恋敵が無力化したのを見た静音は、耕作の傍でしゃがみこんだ。


「でも使命なんてどうでもいいんです。それがあろうとなかろうと、耕作さん、貴方の隣にこの化け猫がいるのは許せない」


 耕作の頬を、両手で包み込む。

 顔を愛する男の、文字通り目と鼻の先まで近づけた。


「耕作さん、私が貴方の恋人になります。そして妻になるわ……いいえ、貴方が望むなら、母にもなる。娘にも。姉にも、妹にも。友人にも、それこそペットにだって。貴方の周りに私以外の女なんていらないのよ」


 静音は口角を上げ、美しくも独占欲に塗れた、狂った微笑みを浮かべる。

 しかしすぐに表情を引き締めると、目を潤ませ、声すら震わせながら、告白の言葉を口にした。


「二十年近く待ち続けて、やっと言える……愛しています」


 耕作は自分に向けられた、底知れない深さを感じさせる漆黒の瞳を見つめ返した。

 瞬時に思考を巡らし、決断を下す。

 全身の力を込め、首を上げた。


 そして静音に唇を重ね、キスをした。

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