天使、かく語りき 二
「なぜ……?」
静音は茫然と口を開け、立ちすくんでしまった。
彼女にとって眼前の状況は、理解できないものだったのだ。
先のレストランで耕作の飲み物へ混入させた薬の効果は、まだ数時間は残っているはずだった。
ミーコを始末し、耕作を家へ連れ帰る。
それを可能とする、十分な時間の余裕があるはずだった。
なのになぜ、彼は意識を取り戻し、ここに現れたのか。
静音の疑問には、すぐに答えが与えられる。
玄関のドアが開き、耕作の後ろからもう一人、別の人物が入ってきた。
上下黒のスーツを着たその人物は、天井にぶつかりそうな頭をかがめつつ、勢いよく進み出て、静音の前で土下座した。
「お嬢様! この加藤、いかなる罰も、お叱りもお受けいたします! ですからこのようなことは、どうかもうおやめ下さい!」
巨体を丸め懇願する女丈夫の姿を見て、静音は呆気にとられてしまった。
その前で、加藤は尚も諫言を続けていく。
「吉良様を拉致するだけでなく、部屋へ押しかけて狼藉に及ぶなど、正気とは思えません! どうか目をましてくださいませ!」
加藤はそれから後も「なにとぞ、なにとぞ」と、やや時代がかった言葉を繰り返した。
静音もやがて、全てを理解する。
両手を腰に当てると、怒りを抑えた、淡々とした口調で問いかけた。
「そう。加藤さん、貴女が裏切るとはね。一応聞かせてもらうけど、薬の効果が短かったのはなぜ?」
加藤は平伏したまま、答え始める。
耕作に飲ませた薬は、静音から依頼されたものとは異なっていたのだ。
即効性はあるものの、持続性は薄い。
また、レストランを出た後で、加藤は密かに解毒剤も耕作に飲ませていた。
説明を聞いた静音は、苦虫を噛み潰したような顔で、加藤に命令する。
「そう、分かったわ。貴女への処分は、おって伝えます。車に戻って待機してなさい」
「お嬢様……」
加藤は顔を上げ、静音を仰ぎ見る。
だが静音は、加藤には一瞥をくれただけで、すぐに耕作に向き直った。
「ここから先は、私と彼の時間なの。貴女に割く時間なんて、一秒たりともない。すぐに出ていきなさい」
主人から突き放され、加藤は捨てられた子犬のような顔を見せた。
よろけつつ立ち上がると、静音に向かって一礼し、肩を落としたまま部屋を出ていく。
すれ違う加藤に対し、耕作は声をかけた。
「ありがとうございました」
女丈夫の後ろ姿を見送ると、部屋へ入り、照明のスイッチを入れる。
そして真っ先に、部屋の角にいるミーコへ声をかけた。
「ただいま」
「お帰りなさい、コーサク!」
ミーコは目に涙を浮かべた。
これ以上ない、文字通り最高の笑顔で、耕作を迎える。
耕作も笑顔で応えた後、時計へと目を向けた。
「ぎりぎり日付が変わる前に帰ってこれたかな。約束を破らずに済んだ」
時刻は二十三時五十八分だった。
耕作とミーコは、それぞれ部屋の角、ちょうど対角線上に位置している。
二人の間には静音が佇んでいた。
室内には、緊張、疑問、愛情、といった様々な思惑や感情が混在し、充満している。
それは喉が締めつけられるような感覚をも、耕作に覚えさせていた。
張り詰めた空気を打ち破るように、静音が美しい唇を開く。
「いつから聞いていらしたんですか?」
「いや、今きたばかりですよ。まだ薬が抜けきっていないみたいで、足元もおぼつかないんです」
耕作は正直に答えた。
「だから今はまだ、何が起きているのか、さっぱり分からないんです。一体どうして……」
問いかけつつ、耕作は静音に歩み寄ろうとする。
すると間髪入れず、ミーコが警告を発した。
「コーサク、近づいたらだめ! そいつ、天使だニャ!」
「へ?」
ミーコの声を聞き、耕作は二重の意味で混乱する。
まず、静音が天使だという話が、あまりにも唐突過ぎた。
さらに、天使に近づいてはいけない、と言うのも意味不明である。
天使とは、神の使いのはずである。
つまり正義の味方ではないのだろうか。
だがミーコの緊迫した表情と、声の調子からすると、ただならぬ事態に足を踏み入れようとしているのは間違いない。
耕作はそう判断し、進めようとしていた足を止めた。
静音が不快感を露わにした言葉をかけてくる。
「ずいぶん素直に、その化け猫の言うことを聞くんですね」
「ミーコは俺の不利益になることはしませんし、言いませんから」
答えると同時に、耕作は「しまった」と思っていた。
ミーコは耕作を騙すようなことはしない。
一方、静音は薬を盛って拉致しようとした。
自分の発言は、静音に対する皮肉にも取られかねない、と思ったのだ。
「でもまあ、約束を破って寝床に忍び込んできたりはしますけど」
と、静音をなだめるつもりで言葉を継ぎ足したが、これは明らかに逆効果であった。
静音は目に見えて逆上し、こめかみの血管を膨れさせてしまう。
耕作は慌て、今度は理論立った説明を始めた。
「でも今みたいにミーコを、超能力かなにかで拘束しているのを見ても、河原崎さんが普通の人じゃないのは分かります」
「……」
「それに誰にも連絡せず、一人でミーコをどうにかしようとしていたってことは、それだけの自信と、知識があるんでしょう」
耕作の説明を聞いている間も、静音はまだ全身に剣呑な雰囲気を漂わせていた。
だがそれでも、次第に落ち着いてきたらしい。
溜め息を一つつくと、再び口を開いた。
「それで、どうなさるんですか?」
「どうしたらいいのか。正直、俺にも分かりません。だから判断の材料が欲しいんです」
これが今回の事態を解決する、最後のチャンスになるかもしれない。
考えつつ、耕作は願い出る。
「俺やミーコになにが起きたのか。河原崎さんが知っていることを、教えてもらえますか?」
真摯な懇願を受け、静音は細く白い手を顎に当て、考える素振りを見せる。
だがそれは、ほんの十数秒程度のことだった。
「聞いても仕方がないと思います」
「なぜですか?」
「私の結論は変わりませんもの」
「というと……」
「そこの化け猫を始末して、貴方を家へ連れ帰る。ということです」
困った結論だ。
と耕作は思ったが、さすがに口には出していない。
代わりにやや癖のある頭髪をかき混ぜつつ、説得を試みた。
「俺やミーコに関わることです。せめて納得できる理由を知りたい。納得して、それを受け入れるかどうかはまた別問題ですけど」
そこで耕作は口を閉じ、一拍の間を置いた。
続いて少年のように清雅な顔に、強い意志の力を込めて、静音へと告げる。
「少なくとも今、その結論を突き付けられても、俺は全力で拒否しますよ」
耕作の決心を聞き、静音はまた顎に手を当て、思考を始める。
今度は一分近く考えた後、耕作を見つめ返し、答えた。
「分かりました。でも条件が三つあります」
「というと?」
「一つ。私が話すことについては、他言無用に願います」
「もちろんです、分かりました」
元より誰かに話すつもりもない。
耕作からしてみれば、最初の条件は特に問題とも思えなかった。
「二つ。私が話す前に、まず貴方が知っていることを教えてください。私も全ての事実を知っている訳ではないんです」
「いいですよ」
耕作は、これまたあっさりと了承していた。
猫耳を生やしたミーコを目の前にしている以上、静音に隠す必要がある事柄など、残ってはいない。
全てを話し、協力を仰いだ方が良いだろう。
と、耕作は思っていた。
耕作の返答を聞き、静音は頷く。
続いて彼女が見せた所作は、耕作が予想だにしていないものだった。
淫猥と表現してよい笑みを浮かべると、媚を売るようにして耕作へにじり寄ったのだ。
「三つ。これから私のことは、静音って呼んでください」
「え?」
予想外の条件に、耕作は一瞬思考を止める。
だが彼を見つめる静音の目は、本気であった。
ねっとりとした視線で耕作の口元を捉え、離さない。
「ねえ、早く呼んで。し・ず・ね。さあ早く」
静音は口から涎まで垂らしながら、せがみ続けた。
耕作は絶句したが、やがて覚悟を決める。
部屋の角でミーコがなにやら絶叫し、暴れていたが、それを無視して口を開いた。
「し、静音……さん」
「んー……まあいいわ。許してあげる、耕作さん」
静音は両手を頬に当て、悦に入っていた。
その後ろでミーコは涙目になり、悔しさのあまり唇を噛んでいた。




