天使、かく語りき 一
ミーコは魂が抜けたかのように呆然と口を開け、目を見開き、眼前に現れた少女――天使を眺めていた。
天使は身体に、染み一つない純白の衣装をまとっていた。
背中には二枚の羽を生やしている。
それもまた、衣装と同じく真っ白であった。
だがその色を除けば、白鳥の美麗さよりも、鷹の猛々しさを感じさせる、勇壮な外観をしている。
巻き毛の頭髪は胸の辺りまで届き、頭上に浮かぶ輪に劣らぬほど、金色に眩く輝いている。
瞳はサファイアのように青く、その内に幾多の星々を煌めかせていた。
顔立ちは名工の手によるガラス細工のように整っている。
ミーコとどちらが美人かと言われても、甲乙つけがたいほどであった。
ただし同じ美人と言っても、趣は多少なりとも異なる。
具体的に言えば、ミーコの顔立ちが日本人を思わせるのに対し、天使は東欧系白人のそれであった。
年の頃はミーコと同年代か、むしろやや幼いかもしれない。
あくまで外見は、ではあるが。
天使は踊るようにして、ミーコの前でくるりと回る。
そして背中の羽を、左右の壁へ届きそうになるぐらい、大きく広げた。
「この姿になるのは久しぶり……でもないわね、まだ二週間も経ってないもの。ところでどう? 驚いたかしら」
ミーコは答えない。
というよりも、眼前の出来事にただただ呆気に取られてしまい、答えられないでいた。
その様子を見て、天使は自ら話を進めていく。
「目の前の事実を理解はすれど、受け入れることができない、ってところかしらね。まあいいわ」
天使は口角を上げ、腰に両手を当てる。
「貴女が私を見るのは、今日を含めて二回目……でも私は長い間、貴女達を見ていたのよ。正確に言えば彼、吉良さんをね。それこそ子供の頃からずっと……少年だった彼が、青年へと成長するのを、ずっと隣で見てきたの」
天使の声色には、陶然とした色合いが増していく。
「私は彼の全てを知っている。成功も、失敗も。誇れるところや、他の人には言えない恥ずかしいところも。どんな青春を過ごし、挫折を味わったか。そして彼が胸に抱いている愛情と、憎悪も」
天使は一拍の間を置き、深く息を吐いた。
声色に、今度は威嚇の色を強くして、ミーコに宣告する。
「……私だけが、彼の全てを知っているのよ。他には誰一人知らない。それこそ彼自身でさえ覚えていないであろうことまで、全てをね。……だから彼は私のものなの。これだけは絶対に揺るがない、揺るがせないわ」
発言を終えると、天使はミーコを見下ろした。
自分とミーコとでは、耕作を愛した期間に圧倒的な差がある。
当然、愛情の深さや、大きさも比べものにはならない。
天使はそう思い、今はテストで満点を取った子供のように胸を張り、勝ち誇っていた。
だが。
言われるがままとなっていたミーコの目に、この時、小さな火が灯った。
その火はあっという間に炎から業火へと、勢いを増していく。
そしてミーコは、まさに猫が威嚇するように歯をむき出しにして、声を発した。
「……言いたいことはそれだけかニャ?」
「え?」
「コーサクを見続けていたからって、それがどうした? そんなもの、コーサクには関係ない。コーサクはおまえのことなんか知らない。おまえが勝手に覗き見ていただけだろ!」
天使が息を飲む。
「でも私は違う! コーサクは私を拾ってくれた! 家族にしてくれた! ……おまえの思い込みなんか知るか! コーサクが選んだのは私だ! 分かったら消え失せろ、この白くてヒョロヒョロな、アヒルのなりそこない!」
ガラスがひび割れるような音が響き、部屋中の空気が一瞬にして凍り付いた。
ミーコは天使の思い上がりに、冷水を浴びせかけたのだ。
天使は元々白かった肌からさらに血の気を引かせ、蒼白にすると、黙ったままミーコの傍まで歩みよった。
三色の髪の毛を掴み上げ、身体を引き起こす。
髪を引っ張られ、先の激突による痛みにも襲われながらも、ミーコは闘志を全く衰えさせない。
獰猛な、今にも噛みつくかのような表情を天使に向ける。
片や天使は、顔から感情を完全に消していた。
ガラス細工のように精巧な面容が、冷たく輝いている。
拘束されたミーコを細く華奢な腕で持ち上げ、目線を合わせた。
「言ってくれたわね、この化け猫」
凍土で固められた仮面の下、憤激が溶岩のように煮えたぎり、渦を巻いている。
天使の声音や表情には、相反するものが同居する、底知れない恐ろしさがあった。
「消えるのはおまえの方よ。彼の前からだけじゃなく、人間界からも消し去ってやるわ」
そこまで話すと、天使はミーコの髪を放した。
ミーコはバランスを崩し、両膝を床に打ちつけ、座り込んでしまう。
「楽に死ねるとは思わないことね。この部屋には既に結界を張ってあるわ。どんなに叫んでも、誰にも気づかれないわよ。せいぜい苦しんで……」
発言の途中で、天使が眉をひそめた。
その途端、彼女の身体は再び輝き始める。
ミーコは異変を察し、後ろ手を組まされた体育座りのような姿勢のまま、部屋の角まで後ずさった。
先ほどと同じように光は強さを増し続けた。
天使は巨大な光の塊となる。
そして輪郭を崩し、人型に変化すると、今度は天使ではなく、黒髪の美女、河原崎静音の姿となった。
静音は自らの身体に目をやると、髪をかき上げ、頭を振った。
「……時間切れだわ。あの姿のままでは、人間界にはあまり居られないのよね。まあ元々、戻るつもりもなかったんだけど。まったく、貴女のせいで予定外のことばかり起きるわ」
「……なんのことだ?」
ミーコの問いに対し、静音は腕を組み、不満げな態度をとっていた。
「今夜のことよ」
当初の予定では、静音は耕作を眠らせた後、彼を連れて自宅へ直行する予定だったのだ。
耕作が起きたら、月曜日までの間、肌を重ね続け、彼を虜とするつもりだったのである。
「そのための薬や道具も、全部用意してあったのに」
静音の口ぶりは、いつの間にか拗ねたようなものとなっていた。
「でも彼にまとわりついていた女が貴女だと分かって、先に始末しなければならなくなったのよ」
静音が滝沢から受け取った写真には、耕作と、人間になったミーコの姿しか写っていなかった。
そこで静音は、疑問を抱いたのだ。
耕作が飼っていたはずの猫は、どこへ行ったのだろうか? と。
だがその疑問も、ミーコの三色の髪と、色違いの両目に気づいた瞬間、氷解していた。
「……まさかと思ったけどね。でも吉良さんと同じ部屋に住んでいるというだけでも、万死に値するわ。悪魔と契約したのだろうと、そうでなかろうと、さっさと片付けるのに越したことはない。そう思ったのよ」
静音は両眼に、無機質な光を宿した。
「貴女の痕跡は完全に消し去ってあげるわ。もちろん、吉良さんの中からもね。貴女を始末した後で彼を愛しつくして、私のことしか考えられないようにしてあげるわ……この部屋に帰ってきた時に貴女がいなくても、きっと気にも留めなくなっているはずよ」
欲情と愉悦に塗れた表情で、静音は告げた。
ミーコは憤怒の表情で、もがき、手首と膝にはめられた戒めを外そうとしている。
だがそれらの努力は、全て無駄となっていた。
両手両足の拘束は、びくともしない。
静音は暴れ続けるミーコへ、両掌を向けた。
「じゃあ、覚悟はいいかしら? 予定がだいぶ変わっちゃったけど、いい加減、本筋へ戻らせてもらうわよ」
「河原崎さん、申し訳ないけどその予定、もうちょっと変更できるかな」
穏やかなその声が静音へかけられたのと同時に、玄関に明かりが灯された。
声を聞き、光を受け、静音は驚愕する。
だが彼女は同時に、脊髄が痺れるような官能をも覚えていた。
声の主は、彼女が最も愛情を注ぐ相手であったからだ。
静音は振り返り、玄関に佇む耕作の姿を見た。




