暖かい雪
呼び出されて話を聞いた香弥は唖然として降り始めた雪の中で立ち尽くした。
――私と共に来てはくれないか。
こう切り出した城山の話に、最初怪訝な顔をしていた香弥であったが、院の組織を抜けて龍堂高時に仕える事にしたと聞いて絶句した。
「な、何を考えてんのよ? あんたの家は由緒正しい武家の……」
「それ以上に、家以上に、香弥……お前と共にありたいと願っているんだ。お前が父を斬り捨てた武家を憎むように私を憎んでいるのは承知の上だ。それでも私の気持ちは香弥を諦めきれなくて……我ながら未練がましいとは分かっているのだ」
香弥が肩を揺らせて小馬鹿にしたような笑いを零した。
「馬鹿だわ。あんたはつくづく馬鹿なんだね。頭がおかしくなってんじゃないの? あたしと共にありたいだって? 正気で言ってるつもり? 馬鹿げている」
軽く鼻であしらわれたが、それでも城山は引かなかった。
紅波から香弥の本心を聞いていただけではない。
高時の、あの剥き出しの激情を知ってしまったから、どんなに醜くても恥ずかしくても本気で欲するものを手に入れたいのならば、己が纏う何重にも重ねた殻を打ち破る必要を知ったからもう恐れないことにしたのだ。
「どんなに馬鹿だと罵られても、今はもう自分の心を偽らないことにしたのだ。香弥、もう一度だけ言わせて欲しい。私と共に……これからずっと私の隣で私の側で生きて欲しい。どうしても受け入れられないと言うのならば、もう二度とは香弥の前に姿を見せない。お願いだ、香弥の本当の気持ちを教えて欲しい」
「そんな……。そんなこと言われても……。あたしはこんな女だよ。あんたのようなお綺麗な男と一緒になれるわけないじゃないの。分かり切っていることじゃない。ばっかじゃないの」
「馬鹿なのは百も承知だ。それでも私は、どんな生き方をしてきてもどんな香弥であっても好きなのだ。この気持ちだけは多分、どんなに年月が経とうとも変わることはない」
「宗次……。あたしは汚れている女だから……あんたには似合わない」
「ずっとずっと、本当にずっと香弥だけを想ってきた。私の意気地のないせいで迎えにくるのが遅くなりすぎたのだ。もっと早くに香弥を妻に迎えてやれれば良かったのに。何度も悔やんで己を責めた。香弥が汚れているなどと一度だって思ったことはない。汚れていると言うのならば、それは私のせいだ」
「……宗次」
香弥の大きな瞳が潤んでいる。
強気の女の目に涙が浮かぶ。
それでも頷かない。決して簡単には頷かない。
必死に涙を零さぬように堪えている。小さく瞬きした時に溢れた涙が一筋だけするりと頬を流れ落ちた。
それを見た城山は腕を伸ばして香弥の華奢な肩を抱き寄せて、己の胸に抱きしめた。
「香弥……どうか拒まないで欲しい。不甲斐ない私を許して欲しい。受け入れてくれ」
「……ばか。ばか宗次……。あたしみたいな女の為にどれだけのものを捨てるつもりなのよ」
「香弥のためになら全てを捨てても惜しくない。今までそう出来なかった自分を悔いている」
「本物のバカだよ、あんたは」
そっと香弥の細く白い指が城山の胸元に置かれると、それに応えて城山が腕の力を強くして香弥を強く抱きしめた。
「もうこのまま離さない。香弥、お前を私にくれないか」
「……こんな女でいいなら、いくらでもあんたにあげるよ。……あたしでいいの? 本当にいいの?」
「当然だ。香弥だけしかいらない。それだけが私の望みだ。信じてくれ」
答えるかわりに香弥は丸みのある額を城山の胸に預けた。
雪が舞う。
けれど寒くなかった。
**
雪は嫌いだった。
汚れた地面に広がる父が流す血の上を白い雪が覆うのを絶叫しながら見て以来、雪は大嫌いだった。
息が白くなりだすと香弥は毎日憂鬱に沈む。
けれど今は雪が憎くなかった。
白い欠片が落ちてくるのを、まるで天からの贈り物のように思える。満たされた気持ちでその贈り物を受け取る。
こんなに満ち足りたのはいつ以来だろう。
父を失い、身売りのように生きてきて以来心を満たすことなど一度もなかった。
初めて紅波を見た時に、幼い身から放つ鋭い気と強い瞳、高い位置で結い上げた髪を見て城山の面影を重ね、彼に抱かれる時だけいくらか満たされた。
けれどそれも空しいものだと心は知っていた。それを知っていて抱いてくれる紅波に甘えていた。
これからは本物の城山に甘えてもいいのだろうか。
自分のように穢れた女でいいのだろうか。
不安はいくらでも胸の底から湧き上がるが、今は暖かい腕と固い胸板の奥から聞こえる鼓動を信じたくて、香弥はじっと顔を埋めながら少しだけ泣いた。
想う人に寄りかかれることがこんなに心を安堵させるのかと、香弥はじわりと胸に広がる優しい灯りを受け止めて涙を落としながら小さく笑んだ。
雪の舞う冷たく冷え込んだ年の暮れだった。