警戒する猫
「朔夜――」
「何だ」
振り向いた紅波は冷たいほどの無表情だった。
「俺は初めて内大臣殿にお会いした時から二人がそっくりだと思っていた。到底他人には思えない。だが記憶の無いおまえが戸惑うのも分かる。だから時々会いに来ることから始めたらどうだ? もちろん俺の側に仕えながらな」
「嫌だ。こんな所にのこのこと出向いた俺が馬鹿だった。もうここに居る必要はないだろう。帰らせてもらう」
言うなり素早く立ち上がり止める間もなく部屋を後にする。
呆然として見送ってしまった輝道が慌てて追いかけようとしたのを高時が凛とした大声で止めた。
「お待ちくだされ!」
突然響いた大きな声に思わず驚いて足を止めて、高時を振り返った。
高時は城山へ顔を向けると素早く命じる。
「城山、朔夜を追って先に邸へ一緒に帰ってくれ」
「はっ」
すぐに駆けだした城山を見送ってから輝道に向き直った。
「内大臣殿、ご心配めされるな。あれは戸惑っているだけです」
「戸惑う……。そうか、そうだな。話が急すぎたのかもしれないな」
「そうです。あの者は野生の獣です。慣れるまでは距離を取りながら慎重に近づかなければなりません」
そこまで話してから、ふっと笑顔を見せた。
精悍な面ざしが緩むと人懐こさが前面に出てとても好感が持てる柔らかい笑顔だ。
「俺もそうでしたよ。最初の頃など文字通り近寄ることも出来なかった。今でも飼い慣らすことなど出来はしないし、飼い慣らす気もない。それがあいつの魅力でもあるのですよ」
それから初めて寺で出会った頃の話をして、そのうちに必ず連れてくることを約束してから摂政邸を辞去した。
邸に帰り着いた高時の元に城山が駆けよって小声で告げた。
「紅波が……いえ姶良殿が邸に帰ってから突然倒れて、少し休んでいたらもう大丈夫のようですが、顔色が優れぬようで」
「そうか……あいつなりに緊張したのかもしれないな」
着替えを済ませた高時が紅波の部屋へと足を運ぶと、廊下にまで章時の諫める声が響いてきて、思わず高時の頬が緩んだ。
「だから! 倒れたから今日は横になっているべきだよ朔夜! さっきまでふらふらだったじゃないか」
「もう大丈夫だと言っているだろう」
「志岐はここしばらく帰って来てないんだよ。探しに行くなんて今日は無理だよ」
「無理をするな朔夜。今日はゆっくりと休め」
ガラリと襖を開けて入った高時が押し問答をする二人に笑いかけた。
朔夜は昨晩金造の元を離れてここに戻って来た。
まだ再建の終わっていない邸は手狭であったが朔夜には一部屋宛がっている。
高時に続いて入って来た城山はどれほど高時がこの男の帰りを待っていたのかをはっきりと知った。
部屋は過ごしやすいように調度が整えられており、不足のないように取りはからわれているのが分かった。
しかし当の本人は刀以外に何も持たずに帰って来たと聞いた。
章時に押さえ込まれながらこちらを睨み上げる姿はまるで、立派に整えられた調度品の籠の中で、毛を逆立てている美しい猫のように見えた。
フーフーと息荒く人の手を拒む獣のように身構えて、鋭い瞳で年若い主を見上げている。
「高時、志岐はどうした? 俺は志岐に会わなければならない」
鋭利な刃物のように鋭い口調で問いただす。
まるで主などと思ってさえいない風情だ。
その不躾さと無遠慮よりも城山を驚かせたのは紅波の変わりようだった。
人を小馬鹿にしたような遊び人風情の口調でない。
声まで違っているかのようにキビキビとしていて、今まで見ていた紅波と同一人物だとは思えない。
「志岐はお前のところに行ったその後、すぐに駿河に戻った。垂水の頭領がどうにもいよいよ危ないそうだ。まだ報せはないが新年を迎えるのは難しいらしい」
さっと紅波の顔が強ばった。
それと同時に高時の眉が少しだけ跳ねたが、それに気がついた者はその中にはいなかった。