龍の名を持つその人
思い返すだけで今も胸が痛む。
一年半以上経った今も欠片も忘れてなどいない。
我ながら女々しいことだと思うのだが、あれほど強烈で惹きつけられた男を忘れるなど出来るはずがなかった。
汚い身なりで野生の獣の如く警戒心剥き出しだった姿も、若獅子のようなしなやかな身のこなしで敵を斬り伏せてゆく姿も、居ずまいを正すだけで凛とした空気を漂わせる美しくも峻険な姿も、獰猛な瞳で責めるように見つめる姿も、真っ直ぐに魂から繰り出される偽りのない言葉も、一欠片も忘れられないでいる。
手に入れたと思った獣は牙を剥きだしにしながら、それでも時折懐いてみせて、そしてなにものにも縛られないままでするりと手元を抜け出して逃げた。
多くの家臣を従わせながら、ただ一人を得られないだけでこんなにも空虚を抱えることになろうとは、あの時にどうして気がつかなかったのだろうか。
去ってしまった春のあの日から、朔の夜が巡る度に心は苦しさに引き裂かれる。
思い返せば血を吐くように苦しむのに、どうしても思わずにはいられないその狭間の苦しみに、未だ心はのたうちまわるばかりだった。
――朔夜、お前は今どこにいる? 少しは俺のことを思い出しているのだろうか? ……生きているのか、朔夜?
ぼんやりと馬を歩かせていた高時は気がつくのが遅れた。
「うおっ!」
辻を駆けてきた男とぶつかりそうになり、慌てて馬首を巡らせる。
男は何やら悪態を吐きながら高時の前を猛然と駆け抜けて行った。それに続いて数人の足音が響く。
「待て! 逃げても無駄だ!」
男を追って飛び出して来たのは、件の男、城山隼人であった。
馬上にある高時と義信にちらっと目を遣りながら、わざとらしく視線を逸らせて男を追う。そこに高時が声を掛けた。
「あの男を捕まえるのか?」
部下に追うように指示してから立ち止まり、不敵な笑みを口元に浮かべて高時を見上げた。
「我らは今、忙しいのです。お暇なお大名に構っている暇はありません。これにて失礼」
「待て、俺の問いかけに答えてはおらぬ」
城山のあからさまな厭味にも気にせず高時は問いを重ねた。
形の良い眉を跳ね上げた城山が吐き捨てるように冷たく言い放った。
「夜盗です。では失礼」
そのまま踵を返すと駆けて行く。
だが、その後ろから高時が馬で追い抜き、追い抜きざまに馬上からやんちゃそうな笑いを浮かべて振り返った。
「馬で追ってやる! これが早い」
すぐに先に駆けて行った城山の部下をも追い越し、高く跳躍するや夜盗の男の前に馬を着地させる。突然の馬の出現に驚いた夜盗の男が咄嗟に懐から刃を抜いて振りかざした。
だが、ひらりと飛び降りた高時が、腰の太刀を抜き放ちながら、素早く夜盗の手の中の刃を打ち据えた。
がちゃん――
音をさせて刃を取り落とした夜盗の驚いた顔が一瞬で反転する。高時が腕を捻り上げながら地面に叩きつけたのだった。
「……お見事に、ございます」
城山の、喉にくぐもった声が悔しそうに思えるのは気のせいではないだろう。
どちらも京の町を守るとの使命がある。片や帝から、片や院から。それぞれの思惑もあるだろう。
「呆けておらずに早く縄をせぬか!」
男を取り押さえながら城山の部下に向けて一喝するや、我に返った部下達が慌てて高時の指示に従い夜盗の男に縄を掛けた。
「くっそー! 覚えてやがれっ! おめえら全員後悔させてやるからな!」
悪態を吐きながら引き摺られて行く男を見送った城山が、改めて高時と真っ直ぐに向き合い、睨むように目をつり上げながら軽く礼をした。
「龍堂高時殿とお見受けいたします。私は院より京の守護を言い付かっております城山隼人と申します」
「ああ、そうだろうと思った。先日は我が妹が世話になったそうだな」
「世話などと。ふらふらと町の怖さも良く分からぬのに出歩く姫が居られたので気になったまで。すぐにそこの野間殿が来られましたから、私などいかほどにも役だってはおりませぬ」
「そうか。まあ、姫にとっては苦い薬となったなら良いが、またぞろどこかに出かけたいとか言うて困っている。また見かけたら灸を据えてやってくれ」
快活に笑いながら、城山の放った嫌味を軽くかわす。目を細めて高時の様子を窺いながら城山はまた厭味を放つ。
「もう御免被りますな。そのような事はお身内でなさるがよろしい。私も暇人ではありませぬゆえ、どうかご容赦を」
「ははは、そうだな。全くだ。忠告、痛み入る」
ひらりと馬に乗ると軽く腹を蹴って義信の待つ方へと戻る。不意に振り返ると眉を顰める城山に向けて片手を上げた。
「いずれ、また会おう。城山殿」
後に残されたのは秋の夜風に舞う砂埃と馬の足音だけだったが、城山はいつまでも高時の放った余韻に縛られていた。
――なんだ、あの存在は。
あれが龍堂高時か、と城山は奥歯を噛み締めた。
院にも帝にも、そして多くの地位高い公卿にも目通りしてきた。宮中を守る武士団とも渡り合ってきた。
だが、そのどれにもない存在感を高時は放っていた。
圧倒的な存在感、良い意味での威圧感、目を惹きつけられる凛々しい容姿、鷹揚でいながら人を従えるだけの力を持つ言葉、突き詰めれば――
「……魅力か……」
粗野な田舎者が帝をたぶらかし、取り入っていると常々苦々しく思ってきた城山達だ。龍堂になど負けはせぬと自負して、京の町は己らで守るのだと働いている。龍堂高時など、いかほどにもない武力一辺倒な不粋な男だと思っていたが……。
口の中に苦いものが込み上げて来る。
砂埃に向けて唾を吐いた城山は、口元をごしごしと拭いながら、それでも高時らの消えた闇を見据え続けた。