美しい月の子
「そなた……子供の頃の事は何も覚えていないとはまことか?」
「ああ、本当だ。生憎、幼き頃の事は何一つ覚えていない」
答えた紅波の声と輝道の声はやはり似ていた。
少し紅波の声は掠れているが。
紅波の答えを聞いて微かに肩を落とした輝道が静かに問いかけた。
「痣は……痣はあるか?」
「あざ?」
「弟には内腿に生まれつき赤い痣があったのだ」
言い募る輝道に紅波は戸惑いの表情で少し目を逸らせる。
横顔に輝道の期待した視線が突き刺さったが、それを無視して紅波が足を崩し片膝を立てて行儀悪く座り直した。
見ていた城山は思わず血の気が引いた。
こんな高貴な公達の前でこのような不作法な事をした者など今まで見たことも聞いたこともない。
だが高時もそれを叱ることもしない。
――これだから田舎者と呼ばれ蔑まれるのだ!
城山は小さく舌打ちする。
高時自身には初めて会った時から惹かれた。
だが都での評判は、田舎武士だの成り上がりだのと陰口されている。
本物を知らないからだとそんな悪口を聞き流した城山だが、さすがにこんな態度を公達の前で取る家臣を注意しない高時の、京でのしきたりに対する無知には眉を顰めた。
片膝を立てた紅波はおもむろに袴をするすると引き上げて白い肌を晒す。
やがて膝を越えて内腿に差し掛かると、ぐっと一息に袴を掴んでその内側を見せつけた。
「こいつが見たいのか?」
そこには薄赤い三日月のような痣が浮き出ていた。
「あっ……」
高時も城山も同時に声を上げた。
内腿にある赤い痣。
――弟には
輝道はそう言っていた。
紅波はこれを見せるために足を崩したのだ。
目を瞠ってさらけ出された内腿の赤い月を見ていた輝道がそっと手を出してその痣に触れた。
「……月の子……」
「え?」
「ああ、本物の痣だ……。月の子が、弟がここにいる……」
痣を撫でられて眉根を寄せる紅波は警戒している獣のようにピンと気配が張り詰めている。
己を検分する人間を警戒している。
だがその気配に気がつかないままの輝道が、がばりと顔を上げると勢いよく両手で紅波の両手を握り込んだ。
「そなただ。間違いない……」
握り込まれた両手を驚いてじっと見つめている紅波が、ぽつりと零した。
「――ハハコグサ……」
「……何と?」
「母子草。夢で見た……母子草を集めようと、俺ともう一人、小さな手が……。そうだ、あれはどこか池のほとりで……二人で……」
宙を見上げながら紅波が途切れながら思い返しているのか、独り言を呟く。
「いつか志岐の側で目覚める前に見た夢だ……あの時に感じた手……母子草を集めていた自分の手を握った子供の手……」
心の中の独り言がほろりほろりと零れるように無心のままで紅波の唇から言葉が落ちてゆく。
それを遮ったのは雫。
雫が紅波の腕に落ちた。
呟きを止めた朔夜が顔を上げると、よく似た薄茶の瞳が涙を溢れさせてこぼれ落としていた。
「……母子草集めをしたのを覚えていたんだね。美月。幼名だけど美しい月と書いて『美月』。それがそなたの名だよ」
「みつ?」
「そう美月君と呼ばれていた。そして私の名は陽鶴」
「はづ……」
繰り返す紅波の顔に期待を込めた瞳を向けて何か答えを待つ輝道に、紅波は小さく首を横に振ってみせた。
「俺はやはり何も覚えてはいない。済まないが分からない」
明らかに落胆したのが分かった。
同じ顔が二つ並ぶ様をじっと見ていた城山にも、輝道が肩を落として項垂れたその胸の空虚さが伝わった。
それでも思い直したように顔を上げて紅波の顔をじっと見つめて、それから少し柔らかく微笑んだ。
「母子草、あれを集めて病がちな母さまにお渡ししようと二人で集めたんだよ。でもその日に宮さまが来て、宮さまも集めたいと言うから昼寝をしていた美月を置いてこっそり邸を抜け出し、そして……そなたは攫われてしまった。それ以来……母子草は手にしたことはない。辛くてとても見ることが出来なかった」
ああ、と紅波は深い吐息を洩らした。