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心の死

 高時の元を離れることは垂水からも抜けることだ。果たして生きて抜けさせてもらえるかさえも定かではない。


「志岐、後悔するぞ」

「……ああ」

「あの居場所を捨てるのか」

「……ああ」

「それでも志岐、去るのか」

「……ああ」


 ふわりと甘い香りに包まれた。


 紅波が手を志岐の肩にそっと乗せて、それから強く掴んだ。


「苦しみの中で譲れない道を見つけたなら行けばいい。それにお前の父母がはっきりしたことは羨ましいことだ。だが必ず生きていて欲しい。俺はお前のことが今でも大切だ。お前は俺の心の道だ。お前の歩く道は俺を導く。その真摯な心で見つけた道ならば歩けばいい。ただし――苦しみから逃げるためだけの道ならば、絶対に歩くんじゃない。心が、死ぬぞ」


 紅波の手のぬくもりがあるのに、志岐はぞくりと身を震わせた。


 心が死ぬ。


 それほど重い言葉を受け止めることが出来なかった。

 そしてその言葉を発する紅波の切実な声に震えた。


「俺は……俺は……、今は離れたいんだ」

「分かっている。その気持ちは俺が痛いほど分かっている」

 志岐は月明かりに照らされた紅波に縋り付いてその鮮やかな青の着物を強く握りしめた。

「頼む、頼むから朔夜、戻ってくれ。いつか俺が帰りたいと思える場所を作っていてくれ。お前ほど俺を惹きつけた男はいない。お前がいるならば俺は戻れるかもしれない! お前がいてくれるなら、俺は頭領に頼み込んでしばらく龍堂以外の他の任務に就かせてもらう。だが、お前のいないところならば二度と戻る気はない。垂水も抜ける」


 いつでも笑顔を絶やさなかった志岐の切羽詰まった声を聞いた途端に紅波の瞳が曇る。

 縋り付く手の力をじっと見つめている。


「暫く……時間をくれないか。すぐには返答できない。お前の望みは聞いてやりたい。だが俺にはまだ決心がつかない。高時の顔を見るのは、正直辛い。いや……恐ろしい」


 ――あいつは俺を許せるのか?


 最後の言葉は風に消えた。

 それでも聞き逃す志岐ではない。


「実は少し前からお前を捜していたんだ。それまでは我慢していた高時様だったが、あるきっかけがあって、お前を捜すように命じられた」

「きっかけ?」

「内大臣の藤原輝道ふじわらのてるみち様を知っているか?」

「ああ、噂だけな。若くして内大臣に就かれた英才で見目も麗しい貴公子だとか。女どもがしきりに噂をしているのは聞いている」

「その内大臣様がお前を捜しているそうだ」

「なぜ俺を?」

「高時様はそれ以上俺に告げなかった。それは俺が知る必要のない事だと判断されたからだ。本来ならば俺は動くだけだ。だが他ならぬお前の事だ。少し裏を探ってしまった俺は驚くべき事を聞いてしまったんだ」

「何が言いたい」

「輝道様には幼い頃に生き別れた双子の弟がいるそうだ。弟が攫われたのは六歳の時。そしてどうやらお前は、輝道様にとても似ているそうだ。高時様が見間違てるほどに、瓜二つだと。今年、十八になるそうだ。」

「……!」


 さすがに紅波が息を飲んで固まる。


「高時様がお前の為に動いている。赦す赦さないとかじゃなく、朔夜を今でも心底欲しているんだ」


 ゆらりと紅波の体が揺れてその場に膝を付いて崩れた。

 背は伸びたがそれにまだ体の成長が伴っていないのか、細い肩が小刻みに揺れている。

 頼りなげに震える肩を見下ろして志岐は首をゆっくりと振る。


「俺は朔の夜が好きだった。真っ暗に沈んだ闇夜に星が降るように瞬くあの静けさが好きだった。お前がどんなに変わろうと、やはり俺を惹きつけるのは闇を身に帯びても輝きを失わないお前だけだ。お前が本当に求める道に高時様はいるのか? 俺はいるのか? 朔の夜を誇りに思えるお前がいるのか? 戻って欲しいのは俺の我が儘だ。だがお前の為でもあると信じている。今のお前の……心は死んでいる。そうじゃないのか? 朔夜」


 砂利を鳴らせて志岐が背を向ける。

 川面から吹く風は冷たいが、体は燃えるように熱い。

 その熱を放り出すように志岐は言葉を空に投げた。

「俺はもう長くは留まれない。自分の目で高時様と対峙してみろ」


 震える紅波を置き去りにして志岐は歩き始めた。


 本当はこのまま連れて行きたいほどの衝動に突き動かされそうだったが、今の朔夜は紅波である。

 心の定まらないままでは、あの美しくも野蛮なほどに真っ直ぐ突き刺さる魂は戻らない。


 奥歯を噛み締めて志岐は川原を後にして、乾いた土埃の舞う夜の町を一人で歩いた。


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