志岐の秘密
「……なんだと?」
「高時様から言い付かって来た、朔夜を説得して欲しいってな」
「そ……嘘をつくな。そんなはずはない」
「嘘じゃない。あの方は今でも、いやお前が去ったあの日からずっとお前を必要としているんだ。戻れ朔夜。お前だってもう一度あの場所に戻りたいんだろう?」
しばし沈黙が二人の間に流れる。
やがて紅波が顔を背けて瞳を閉じた。
「無理だ……そんなこと無理だ。俺は高時を裏切ったんだ。今更そんなこと出来るはずがない! そんなことをすれば他の者にも示しがつかない。俺にはそんなこと出来ない!」
「馬鹿かよ、朔夜! お前は高時様の事が何にも分かっちゃいねえんだな。あの人はな、お前が出て行った後、姶良朔夜は特別な任務でこの場を離れている。そんな嘘を通してお前の戻る場所を守ってきてたんだ。分かるか? 己を見限った家臣一人の為にそこまでして、お前を取り戻したいと思っているんだよ! 俺は……俺はあの方が理屈抜きで好きだ。だが……」
言葉を切り、一度大きく喉を鳴らして唾を飲み込むと、足元の石ころを強く蹴りながらくそっと悪態を吐いた。
それから顔を上げてしっかりと紅波を見据えた。
「俺はもうすぐ高時様の元を離れる。だからお前には戻って欲しいんだ。義信様が妹君を連れて出奔し、そして俺も離れて、あの人の近くにいる者が立て続けに消え去るその苦痛をお前が戻ることで埋めて欲しい。……俺のわがままだと充分に分かってんだよ。だけど、だけど俺はあの方を苦しめたくはないんだ」
「な……なぜ……? 垂水が高時から手を引くのか?」
「違う、垂水が高時様に仕えることは変わりない。だが、俺が高時様の側近くにいる事に耐えられないんだ」
「なぜ……」
驚きの目は、やはり昔のままの朔夜だ。
そう思いながら志岐は深く息を吐き出して流れゆく川面を見つめた。
すでに辺りは暗くなり始め、あー、あーと名残を残す声でカラスが鳴きながら山へ帰る。
朔夜が背を向けて去っていった日に、早咲きの桜が舞っていたのを思い出しながら目を閉じた。
――ああ、あの時の朔夜の気持ちはこんなにも痛いものだったのだな……。
本当は捨てたくもない居場所を捨てざるを得ない己に、こんなにも嫌悪するなんて。それでも曲げられない気持ちがある。
胸が……痛む。
俯いて目を閉じたままの志岐をじっと紅波が見つめている。黙って話し出すのを待っている。
こんな時、無駄に先を促すようなマネはしないこの空気が志岐には心地良かった。
「俺は……聞いてしまったんだよ」
漸く瞳を川面に戻した志岐がぽつりと呟いた。
あまりにも声が小さかったので、紅波は足元の砂利を鳴らして志岐のすぐ隣に近づいた。肩が触れ合うほどに近づいたのをちらりと見遣った志岐が話を続ける。
「頭領が危ねえんだわ。受けた傷が悪化してさ、気持ちが落ちてんだろうな。もう長くないかもしれねえって。俺を呼び寄せて、こんな話をしたんだ」
志岐は淡々と語るが、その話は紅波を充分に驚かせた。
**
――志岐、俺が死ぬ前にお前に話しておかなければいけない事がある。
そう切り出した頭領は、痩せた手を夜具から出して志岐の手首を掴んだ。
「これは俺とお前の拾い親、壱松しか知らない。お前も生涯誰にも話すことは許さない。心して聞け」
その時、なぜか志岐は聞いてはいけない、これを聞けば後悔してしまうと直感して腕を引こうとした。
だが頭領は思いの外強い力で志岐の腕を引いた。
「いいか志岐。お前の本当の父親は――龍堂時則公だ」
聞こえた言葉が耳をすり抜けた。
驚くよりも何よりも、理解が出来なかった。