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賀茂の河原


「ついて来いよ」


 ぶらりぶらりと歩き出す。


 後ろに志岐が付いてきているのを確認もせずに、波間をたゆたう魚のように気ままな後ろ姿に赤い紐がうなじで揺れる。

 流れてくる甘い煙草の煙は、背後の志岐にまとわりついているのを承知で吐き出しているようだ。


 少し歩いた所で急に立ち止まった紅波が肩越しに振り返った。


「悪い、誰もいないと思ったが、女が残っているみたいだ」


 粗末な家から女の笑い声が響いている。

 ここが今の住処なのだろうか。

 何となく垂水の里にある村人の家を思い出すような古い家だった。


「話が出来ればどこだっていいさ。外で構わない」

「そうか。……そうだな、お前も俺も寒さには慣れたもんだしな」

 ふっと唇の端だけを吊り上げて笑ったが、その姿も艶を含んで見えた。


 日が西に沈もうとしている。

 冬の短い日が沈んでしまえば一気に冷え込んでくるが、二人は気にせず賀茂の河原に佇んでいた。

 冷たい風が吹き付けては背後で盛大に葦が揺れてざわめく。


 志岐は紅波の方を向きながら、その変わり果てた姿をじっと見つめた。

 不躾な眼差しを横顔に受けながら気にもしていないのか、紅波はただ川の流れを見つめたままで煙管を吸い付けては流れる煙に目を細めている。


「……朔夜……」


 久しぶりに呼びかける。

 何度も何度も思い返しては心で呼んだ名を、今はその人に向けて呼ぶ。


「今は紅波と呼ばれている。その名では呼ぶな」


 拒絶。

 それは最初から分かっていた。

 だがそれでも拒絶されると心が軋んだ。

 志岐は唇を噛み締めるともう一度、懐かしい名を呼んだ。


「俺は紅波など知らねえよ。俺の前で偽りの姿を見せるな。俺と話をしてくれ。朔夜として俺と話しをしてくれ」

「……分かった。お前の好きなように呼べばいい」

 しばしの沈黙の後、紅波は溜息と共にそう告げた。


 川の流れる音が絶え間なく聞こえる。

 この音を聞いていると、いつか朔夜を探して川の側で過ごした時の事が甦る。

 体も心も傷ついて震えていたのはまだ幼さを残していた朔夜だ。

 今の彼は大人びて艶やかだが、その心が震えているのが志岐には分かる。


 ――きっと、悔いているはずだ。


 志岐は朔夜と同じような過去を持つだけに、今まさに一度手に入れた暖かで満ち足りた居場所を失う喪失感に怯えているから、それを手放した朔夜が後悔していることが分かる。

 高時はもちろん、志岐やそれに駿河で関わった人やものの全てにもう一度会うことが怖いのだろう。


 諦められなくなるから。

 失ったものを見てしまうから。


「分かってるさ。お前が俺に会うのもイヤなのは分かってんだ。でもいつまでそうやって過去を封印して苦しみを抱えて生きていくつもりだ? これからも高時様から目を逸らせて生きて行くつもりなのかよ?」

 何も答えない紅波に構わず志岐は言い募る。

「そうだろう、お前は生涯苦しみを背負う覚悟であの時去って行ったんだからな。だがあの時、お前は俺に何て言ったか覚えてるか? 己の思い偽っては留まれない、そう言ったんだ。それじゃ今はどうなんだ? 己の思いを偽って生きているんじゃねえのかよ? 本当のお前の心は何処にあるか分かってんのかよ!」

 一気に捲し立てた志岐は肩で息をしながら、紅波の返事を待った。


 じっと川の流れを見つめたままで風に揺れる髪を煩そうに払う紅波がトン、と煙管の灰を落として息を吐く。


「……志岐。俺の心が何処にあるかなどお前ならば知っているんだろう。なぜ敢えて聞き出そうとするんだ。俺に今更どうしろと言いたいんだ?」


 静かに吐き出す言葉は、僅かに掠れた声に似合いの憂いを含んでいた。

 そう、後悔を充分に知り尽くした声だった。


 それを聞いた志岐は漸く切り出した。

「……高時様の元に戻って欲しい」


 ハッと紅波が息を飲んだ。

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