忘れ得ぬ瞳
カンカンと強く響く柱を組み立てる音に我に返った。
どれくらい無音の中にいたのか、目の前で高時がじっとこちらを見ている。
強い目だ。
だがその目は静かに凪いでいる。
朔夜が戻るか戻らないか、その返事はどうであろうと受け入れる覚悟をしている目だ。
全て朔夜の心に任せることを決めている。彼が戻らなければ諦める覚悟をしている。
それは悲しい程に強く孤高の意志が宿る瞳だ。
志岐はそっと目を閉じると、頭を深く下げて床に額をすりつけた。
「承知……仕りました」
金造一家にいる「暁の紅波」を呼び出して貰うのは簡単な事であったが、志岐はあえて正面から訪れることをしなかった。
最後に見た朔夜の背中が未だにこの瞼の裏に焼き付いて離れないまま二年近くを過ごしてきた。
あの時、朔夜は幼い背に全てを背負い込んで覚悟を決めて去って行った。
今更素直に呼び戻せるとは志岐も思ってはいなかった。まともに話し合っても高時の元に返るはずはない。
だからじっと金造の店の近くで張っていた。
『暁の紅波』ではなく『姶良朔夜』と向き合って話し合おうと思ったのだ。
夕暮れ近くの五条の道に、女の嬌声が聞こえる。
笑いと媚びの甘ったるい声をまとわりつかせてぶらりぶらりと歩く男が金造の店に近づく。
男は煙管から煙をくゆらせながら、腕に腰にまとわりつく女へと別れの言葉を告げていた。
「さあもう店の前だ。送ってもらうとは男冥利に尽きるね。気をつけて帰んなよ」
「いやぁん寂しい。もうここでお別れなのね」
「ね、今夜はもっと楽しい事を私と一緒にしない?」
「ああ、ずるい。ダメダメ。紅波は誰とも特別にはならないんだからね」
「もう、どうして好いてくれないの? いけずね紅波は」
「女子の心ほどあてにならない物はないから、俺は捨てられるのがイヤなだけさ」
絶対に捨てない! などきゃあきゃあと声を上げる女どもに軽く手を上げると、まとわりつく女を半ば無理矢理に追い返す。
その女の背を見送った紅波が人の気配を敏感に感じったようで、ハッと身を固くして振り向いた。
殺気にも似た気を放ちながら辻から姿を現した志岐に、思わず紅波が息を飲み込み、それから唇から名がこぼれ落ちた。
「……志岐……」
背はぐっと伸びてすらりと高い。
緩やかに結ばれた髪と着崩した藍の着物、それに似合いの華奢な煙管と甘い紫煙の香り。
そこに佇む男は妖艶な遊び人だった。
どこからどう見ても朔夜の面影は一つもない。多分、知らないまま遠目で見れば朔夜だとは分からないだろう。
だが、今驚きに見開いた目は、間違いなく以前の朔夜と同じ瞳。
一度たりとも忘れたことなどない、強くて綺麗な瞳だった。
互いに視線が外せない。
夕暮れの冷たい風が間を吹き抜けても、その冷たさも感じぬ程に緊迫した空気が流れる。
先に動いたのは志岐の方だった。
「……ちょっと話せるか?」
問いかけているが、そこには否を言わさぬ強さがある。
軽く吐息を吐き出して『暁の紅波』はくいっと顎で行き先を指し示した。