追憶
――こうして
人に触れることには慣れた、と紅波は香弥を胸に抱きながら己の太腿に置かれた白く華奢な手をじっと見下ろしていた。
多くの女に触れ、多くの人から無遠慮に触れられて、人と触れることも慣れたのに……
それでも不意に人から伸ばされる手には未だに避けたくなる自分の弱さに嫌気がさす時もある。
名も刀も持てるもの全てを捨てて誰も知らない一人の男として生きようとしてきたのに、やはり過去からは逃れられないのだ。
五条の橋の近くで賊に襲われていた金造をたまたま助け、金造は行く先のないのを見て取るや、護衛としてうちの店で働きませんか、と言ってくれた。
だが刀で命を奪うとか誰かを守るとか、そんな全てを捨ててしまいたかったから誘いを断ったのに、それでも金造は命の恩人だとそのまま引き留めて名も身分も明かさぬ怪しいこんな男に部屋を宛がってくれた。
そこは金造の手下として働く男や女がいる部屋だった。
汚れた服の代わりに着せられたのが女の真っ赤な着物。
細くて背の小さい紅波の大きさに良かったのだと言いながら、女たちから玩具のように色々と世話を焼かれた。
高い位置で結っていた髪もほどかれ、項で緩く結ばれてそこに紅の鮮やかな紐を掛けられた。その赤がゆらゆらと揺れる様が気に入った女達はそれが赤い波のようだと笑い、いつしか紅波と呼ばれるようになった。
どうでも良かったのだ。
なんと呼ばれようとどんな扱いを受けようと、全てを捨ててしまった自分には何一つ執着するものは無かった。
もう二度と自分の事を『姶良朔夜』と名乗る事はない。その名は自分で捨ててしまったからだ。
この手にあった大切で輝いていたものは、すべて『姶良朔夜』という男のもので、今の自分は何も持たない。
そう切り捨てようとしているのに……。
それなのに記憶はいつまでも責めるように嬲るように何度も光の中にあったかつての日々を見せつける。
本当は己の拘るものなど小さかったのかもしれない。大事だと思えるものが変わって行くのを黙って見過ごせていれば失わずにいられたのに、己を通そうとして手を放した。その愚かさを嘲笑うように、いつまでも忘れさせてはくれない。
自分はこんなにもちっぽけでしかなかったのに。
何を偉そうに自我を通そうとしたのだろうか。
――愚かだ。おまえは愚かだ。
いつでも心の奥で響く声。
もっともっとありったけの全てを捨ててしまいたいと願い、自分から金造の手伝いを始めた。
小さい頃から慣れていたことだと身を売るような事を始めたが、心は常に虚ろのままだった。
女を抱き、男を騙し、金品を奪う。どれも人を殺して奪っていた頃よりもマシなことじゃないか。盗賊だった自分が今更なにも躊躇することもないのに、心の洞はどんどん凍結の純度を深めるばかりだった。
心の奥底から凍り付いて、全ては凍り付いた。
だが今は手が熱を帯びている。
あの日、燃えさかる邸の炎を背に刀を振り上げた高時の手を押さえた時の、己の手が燃えているままだ。
義信が最後に告げてくれたあの名、友三郎が洩らしたあの名、それがどれほど大切なものだったのかと心底知らしめられたあの時、僅かの時間しか過ごさなかった京の邸と共に崩れ落ちたのは自分の心の仮初めの平穏だと思った。
この袖を掴んだ友三郎の瞳も、高時のこちらを真っ直ぐに見据えた眼差しも、どれもが自分の中に眠っていた『朔夜』を呼び覚ましてしまう。
戦場を駆け、馬を駆り、霧雨を振るうこの手足。
土煙と血と泥の匂いと具足の重み。
多くの兵の命と、そして高時の命、それを背負う重み。
どれもがあの火事の夜からまざまざと現実味を持って迫ってくる。逃れられない力で夢なのか現なのかさえ分からないまま頭が反芻を強要する。そしてそれに浸る自分を止められない。
だから香弥……。
失わずに見つけて欲しい。
本当に心が求めるものを得ることは難しいことだが、それを得るための努力を捨てないで欲しい。
この喪失感を生涯抱きながら生きるのは苦しいことだ。
胸の中で静かに泣いている香弥の背を優しく撫でる。
華奢な背は猫のようにしなやかで今にも折れそうだ。
だが女は強い。
いずれ母となるためなのか、男よりずっとしたたかで芯にあるものは強い。
女は柳だ。
なよやかでゆらゆらと頼りなさそうに揺れているのに、どんな強い風にも折れることはない。揺れに身を任せながらその風を受け流し、その中で生き続けていく。
したたかで、そして美しい。
男はどうだ。
大木のようにどっしりと構えていたいと願いながら、強い風に抵抗に抵抗を重ねて折れてしまうのが男ではないだろうか。
自分を曲げずに貫こうとする強さが結局は身を滅ぼしてしまうのだと分かっていても曲げられないのが男の性さのかもしれない。
――ならば、今の高時はどうなのだろう。
香弥の背は心許ない細さだが、あの強い君主の背はどうだ。
何よりも信頼し近くにあった義信に裏切られて折れてはいないだろうか。あの状況でありながら、義信をなじるでもなく非は己にあるのだと、今にも倒れそうな姿で言い放ったあの高時の心中はいかほどだったのだろうか。
決して義信もそして自分も高時を見捨てた訳ではない。
高時と共に在りたいと願う気持ちに嘘偽りはない。義信があの場ですでに死を選んでいたのは充分に分かった。
高時の側を離れるならば死ぬ方が楽だと、その気持ちは己の中にもあった感情だったから痛いほど分かった。
戻れないことを知っているのに、高時のことを気に掛けることさえ適わない身であるのに、あの日から手が、心が震えて仕方がない。
押さえられない感情を握りつぶすかのように手を握り込むと、そのまま静かに瞳を伏せ香弥の髪に顔を埋めた。
生まれて間もない細い月が窓辺に凭れて香弥を胸に抱く紅波を黙って見つめていた。