憧憬
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「ちょっと紅波、この間のことは何だったんだい?」
「この間?」
窓辺に肘をもたせかけながら紫煙をくゆらせている紅波を見下ろしながら香弥は怒りを顕わにさせて問い詰めた。
「城山に送ってもらえって、どんな意図で言ったのよ。下らない事を考えているなら承知しないわよ」
吊り上がった眉が本気で怒っていることを示しているが、そんな香弥の怒りにも頓着するでもなく、ゆっくりと煙管の灰を叩き落としてから、紅波が姿勢を変えて膝を立てると着崩した着物の裾から内腿にある薄赤い月の痣が顔を覗かせた。
思わず香弥は息を止める。
その月の痣は日に焼けぬ白い滑らかな肌の上で、この男の妖艶さを際だたせる小道具のように存在を主張する。
まるで見せつけているような姿勢でありながら、そんな自分の姿には何一つ興味はない。
無自覚の毒を振り撒く男が香弥の瞳を鋭く見つめた。
「下らなくない」
「え、何?」
瞳の強さに気圧された香弥は紅波の言葉を飲み込めずに聞き返した。
「下らない事じゃない。大事なことだろう。香弥にとっても城山にとっても」
「なに……何を言っているの?」
「香弥、もう自分を偽るのはやめたらどうだ。お前がどんなに否定していても、お前は城山を強く意識している。それは事実だ。そして城山も香弥を忘れてはいない。これも事実だ」
「なっ……馬鹿なことを言わないでよ!」
「香弥、聞け」
顔を背けた香弥の手を掴んだ紅波が強くその手を引き寄せて、崩れる彼女を抱き寄せる。
「く、紅波……」
「……香弥」
耳元で囁く声があまりにも密やかでまるで睦言の響きのようで、思わず香弥が身を固くする。
「本当に欲しいものは何か、そこから目を逸らすな。手に入れられないと思いこんでいるならそれは違う。手に入れようと足掻いて、醜く足掻いて、それでも手に入らないなら諦めるしかないだろう。だが己の殻を脱ぎ捨てもせずに手に入れられないことを嘆くのは愚かだ。心の欲するものを手に入れようとしないままでこの先後悔しないはずはない。手に入れようとして、出来ずに後悔するならいい。香弥、お前の心がどこにあるのか俺でも分かるんだ。しっかりと自分を見つめ直して答えを出せ」
「紅波……」
紅波の胸の中に身を委ねながら香弥はまるで紅波が泣いているのではないかと錯覚していた。
少し掠れたその声が、まるでひどく辛そうに何かを悔いているかのように耳に響いてくるのだ。
「あんたも……足掻いてみたいの?」
顔も上げずにそっと聞いてみる。
問いかけに何も応えないままゆっくりと上下する胸の規則正しい動きに、この美しくも不思議な男の孤独を感じて香弥は我知らず涙がこぼれ落ちた。
紅波の凜とした強い瞳は城山を思わせる。
いつも真っ直ぐに前を向くあの男に対する嫌悪は八つ当たりだと充分に知っているのに、それでも意地を張ってしまう。
いつも城山が香弥の背をどんな目で見ているのか知っているのに。彼の寂しげな孤独の瞳を知っているのに、意地を張ってしまう。
薄い月の痣に手をそっと置いて香弥は静かに泣き続けた。
幼い頃に崩れてしまったほんの小さな幸せな時を思い返しながら泣いた。