愛称
夜着のままで庭の池の端に座る高時の肩には城山の羽織が掛けられていた。
ここまで来ても炎の熱さが顔を焼くようだが、背中はしんしんと冷えている。
呆然と焼け落ちてゆく己が邸を見るともなく見つめていた高時の瞳が虚ろの端で彼をみとめた。
まるで炎の中から歩いて来るかのような紅波の姿を認めた途端に高時が立ち上がる。
側に付き添っている章時も城山も立ち上がり、紅波が近づくのを待った。
「野間義信は逃げた」
高時の目の前まで来て、紅波は淡々とそれだけを告げた。
「お前……」
何か言おうとした高時より早く城山が口を挟んだ。
「龍堂殿! 逃げたのではなくこの男が逃がしたのです!」
城山は高時をここに運んでから様子を窺いに戻ったところ、ちょうど義信の背中を押して逃がすところを遠目で目撃したのであった。
日頃から憎々しく思う紅波を追い詰める手だてを得たとばかりに言い募る。
「こいつは常々から怪しげな事に身を浸し、何の為にかこの邸にまで来てあろうことか謀反人の野間殿を逃がしたのです。これは京の治安の為にも宜しくない。この場で処罰させていただきたい」
龍堂の邸の中の混乱時に起きたことならば大概のことは黙認されるだろう。
香弥とて混乱の中で紅波が死んだとなれば諦めもつくであろう、そう考えて城山はすらりと腰の刀を抜きはなった。
謀反人をわざと逃がした男ならば、高時も斬ることを黙認するだろう。いやいっそ感謝されるに違いない。
思いながらひたりと刃を紅波に向ける。
そんな城山の動きに動じることもなく呆れたように見つめてくる紅波に苛立ちを感じたのか城山は挑発をする。
「わざわざ盗人よろしく奪ったくせに、その腰のものはお飾りか? 抜かないで大人しく殺されるつもりか? それとも己の罪深さでも顧みて仕方ないとでも思っているのか?」
つい、と足を一歩進めた途端、シュンと鞘走りの音をさせて抜き放たれた刀が城山の目の前を遮り、動きを止められた。
「この男は俺を救った。こいつを斬ることは許さない」
差し出された刃は高時の手にした刀であった。
驚いて顔を向ける城山に、冷めた瞳の高時がもう一度強く告げた。
「こいつを殺すことは許さない」
絶句した城山から顔を背けた高時は、今度は紅波に視線を移して少し唇を噛み締めた。
「……礼をしたい。今宵はここに留まってくれないか」
「いや、遠慮しておく。俺はこんな所にいるべきじゃない」
即座に拒否をした紅波に章時が思わず駆け寄って袖を掴んだ。
その思わぬ行動に驚いた紅波が小さく呟いた。
「……友」
昨年元服して幼名友三郎から高時の時の字を貰い章時になった。
だから昨年までは皆が友三郎、友三郎と呼んでいたが、その友三郎のことを「友」と愛称で呼ぶ者はこの世にたった一人しかいない。
ただ一人の、獣のような強い少年だけだった。
「……朔夜」
呼んだ名は小さな吐息と一緒に洩れた。
だが章時にもはっきりとした確信は無かった。