密約
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もうすぐ雪が降り始める。
義信はひたと佐和姫を見つめた。
駿河の城から見える美しい富士の峰は既に綺麗に雪化粧をして凜とした姿を見せているだろう。
もう一度、あの美しく豊かな駿河に戻り、それから二人きりでどこかに出奔してもいい。部下の全てを引き連れて敵対する盛へと奔ってもいいかもしれない。
そんな義信の言葉に佐和姫は怯えている。
だが心のどこかではそれを望んでいるのが分かる。
――あなたを連れてここから逃げる。
その言葉に驚き、怯え、そして憧れる。
佐和姫はまだ苦労も怖さも知らないのだ。
だから義信の考える無謀さに気がつきもせずに、承知の返事をしてしまう。
義信自身が抱える手勢はこの京にあってはせいぜい五十だが、京とその周辺に兵を配備しているため、この高時の邸には大した数の兵はいない。
もし見つかってもこちらの手勢でなんとか防いで姫を連れ出すことは出来るであろう。
京の底冷えは厳しく冷たい風が身に沁みるが、義信の体は妙な火照りを感じていた。
それは幼少からずっと慕い大切に思ってきた高時を裏切ることと、佐和姫を連れて逃げることに対する興奮との狭間から生まれる熱であった。
主君か姫か。
高時に直接訴えに行ってから義信は何日も一人籠もりながら考え続けた。
まるで蟄居しているかのように外に出てこない義信を高時も放っておいた。その内に落ち着くだろうと思っていたようだ。
だが義信はぐるぐると巡り巡って、結局姫を選んだのだ。
義信の母は高時の乳母でありながら、高時を生んですぐに無くなった彼の実母の代わりに母として今も駿河本城にいる。
父春義は駿河を高時の代わりに守っている押しも押されぬ重鎮である。
ここで自分が主家を裏切る事の重大さも分からぬほど馬鹿ではない。それに義信自身も高時の事は幼少の頃からずっと慕い、大切に思って育ってきたのだ。
高時と初めて会ったのは義信が十歳の時だった。
年下の高時はまだ八歳であったが、すでにその存在感が人を魅了するほどに際だっていた。
見た瞬間、義信はこの少年に仕えることができる幸せを感じたほどだ。
キラキラと輝く目。良く通る大きな声。溌剌として健康な体。やんちゃで利発な性質。
どれもが上に立つ者の資質だと思った。
三男であることなど何の障害でもないと思わせる資質があった。だから高時が兄弟で相争う事になった時も何の不安もなかった。
この国の主はこの方以外にいるはずがない。
それは義信の中で厳然とした事実としてずっと有り続けたからだ。
今でも高時は義信の憧れであり唯一無二の存在だ。
裏切るなど自分でも信じられない。
だが我慢できない。
佐和姫が苦しみに泣き崩れるのを目にしては我慢出来ないのだ。
高時に忠誠を誓う者なら沢山いる。皆命を賭けても一つも惜しくないと思っている。
それだけの存在である。
だが佐和姫はどうだ。
自分が助けなければ誰が救ってくれると言うのだ。
高時の言葉は国の意向だ。
彼が言った以上、姫は万に一つも救われる道はない。
そして姫の望みはただ一つ。義信と共にあること。
それならば救えるのは自分以外いないではないか。
そうしてこの日、義信は密かに姫の元を訪ねて計画を打ち明けたのだった。
月の無い朔の夜。共にこの邸から逃げ出しましょうと。