姫の処遇
空は朝からどんよりと曇り、陽射しのない分一層寒さが身に沁みる。だがこの寒さは空気のせいではなく、心が冷えているからだ。
目の前で佐和姫はずっと泣きやまないまま脇息に身を預けている。
その小さなすすり泣きの声に義信の心は千々に乱されるのだ。
――佐和姫を盛に送る。
昨晩、高時は家臣一同を集め、盛一成との会談の中で互いに人質を差し出すこととなった経緯を話し、そして初めは越後の方へと嫁に出すつもりであった佐和姫を盛へ差し出すことに決めたのだ。
自分の父ほどに歳の離れた男の元に嫁がせることになるのだ。
さすがにまだ十七歳の佐和姫には酷ではないかとの声もあったが、盛一成は未だ独身で息子はいない。
跡継ぎとして家臣の子供を数人自分の元で面倒を見ているが、誰にも家督相続を決めてはいない。もし佐和姫が盛の子を産めば自然と盛一成の力は龍堂家に転がり込んでくるのだ。
これほど良い話はないだろう。
結局、満場一致で佐和姫の処遇は決定した。
その場でただ唇を噛み締めるしかなかった義信は、己の臆病に歯がみしていた。
あの重臣の中でただ一人声を上げて反対を言い出す勇気が無かったのだ。
佐和姫を愛おしい気持ちには何一つ変わりはない。
だが龍堂家の先を考えれば今回の決定に異を唱えることは出来なかった。
その葛藤に押しつぶされそうになりながら、義信は姫の項垂れた姿を見つめるだけなのだ。
姫に掛ける言葉を見つけられずに義信は迷い子のように行き場のない己の心を持て余している。
「……もういいのです」
切れ切れに泣き声の隙間から佐和姫が消え入らんばかりの声で言った。
「もう……佐和は生きていられません」
「な、なにを!」
驚いた義信が膝を進めようとして、姫の鋭い声に遮られた。
「近寄らないでください!」
ビクリとして動きを止めた義信と姫との間に冷たい空気が流れた。
「よしてください。義信様も佐和が嫁ぐことに反対はされなかったのでしょう? 今更なんの同情をなさるおつもりですか? わたしなど兄上の道具でしかないのでしょう? 少しでもあなたの言葉を信じた佐和が愚かでした」
「違います! 姫!」
「何が違うと申されますか? どうせ殿方にはおなごの気持ちなど分かるわけがありません。慕っている方がいるのに他のところへ嫁ぐなど、死に行くのと同じ思いなのですよ。もう佐和に構わないでください。こんな、こんな思いをするくらいならば、いっそ今すぐにでも死んでしまいたいのです!」
泣きはらした顔を上げた佐和姫が義信をきつく睨み上げた。その花のような可憐で美しい顔は、泣きはらしたせいで目の周りは赤く色付き、それが青ざめた顔色の中で姫の存在を主張していた。
やがて、ふっと表情を崩した姫がポツリと零して自嘲した。
「どうあっても……心寄せた人とは寄り添うことも許されぬ業を背負ってしまったこの命など惜しくもない……」
しばし絶句して義信は姫を見つめた。
今、佐和姫が思い浮かべているのは自分なのか。
それとも手元から逃げ出した獣の目を持つ男のことなのか……
眉を寄せて苦しげな表情を浮かべた義信が、強く唇を噛み締めた。
まだ幼く無垢な姫を苦しめるのは、過去の影か?
いや、今、目の前にいる惰弱な己自身ではないのか?
「……姫。この義信、己の怯懦を今、強く身に沁みてございます。姫がそこまで苦しむとは思い至らずに大勢に流されてしまいました。ですが姫の死を思うほどの苦しみを知ってしまった以上、わたしは黙ってはおられませぬ。そのようにお辛い思いをさせるために私が側にいるのではない。あなたを救いたい」
「義信様……。わたしの望みはただ一つです。義信様と共に生きること。それだけなのです。兄上が決めたことを覆すことは出来ません。だから、どうかもう佐和を死なせてください」
あれほど朗らかで子供じみた姫が萎れた様は、義信に大きな打撃を与えた。姫がこんなにも一途に想っていてくれたことにも心が震えた。
朔夜と自分のどちらを、となど僅かでも考えてしまった己を恥じる。
姫はここまで思い詰めるほどに想ってくれているというのに、自分は何をしているのか!
迷う気持ちは消えた。
義信は立ち上がると姫の側に膝を付いて白く細い腕を取った。
「今から高時様と話しおうてきます。姫と私の気持ちを伝えて何とかこの話を阻止してまいります。ですからどうかこれ以上泣かないでください」
「そんな! 下手をすれば義信様のお立場が危うくなります。ダメです! もういいのです! 佐和がわがままを言いすぎました」
慌てて姫が首を横に振る。
そんな事をしてはいけないと。
高時は決して家臣の話を聞かない暴君ではない。
だがこの話はどこからどう見ても都合の悪いところなど龍堂にはない。
それに国と国の話だ。単なる一家臣の感情だけで動かせるものでもない。
しかも高時自身もだが父時則も大切にしていた姫に、妻子ある家臣の分際で懸想しているなどと知れたら、義信もどのような咎を受けるか分からない。これは秘めておくべき話なのだ。
だが義信の決意は固い。
「姫を苦しませないためならば、私はどんな犠牲を払っても惜しくはない。これが私の気持ちの証しです。己の気持ちに嘘はつけませぬ。もし、もし高時様がお許し下されば私は姫を妻に迎えたい。妻子とは離縁します。どうか否とおっしゃらないでください」
「そんな……」
手を放して少し下がり、きっちりと平伏した義信のその姿に佐和姫は戸惑いを見せる。
高時の元に行ってはいけないとの思いと、義信の言葉を嬉しく思う気持ちと、複雑に混じり合い混沌が渦巻いているのだろう。
その複雑な表情に、いっそすっきりした笑顔で義信が応える。
いつもの甘い笑顔だ。
義信は甘く優しい顔立ちと人を蕩かせるような甘い声をしているので優男に見られるが、じつのところ負けん気も強く芯には強いものを持っている。
心を決めた義信にもう迷いは無い。
心配顔の姫に背を向けると、すぐに高時の居室へと向かった。