* 2 * 4月の痛み。
その日は、酷く疲れていた。
残業がほとんどない総務の仕事。
だけど、少し前に組織の大幅な変更があって、システムが混乱してしまったせいか、仕事がいつになっても終わらず、帰宅が9時を過ぎてしまった。
何とも間の悪いことに、氷川くんは珍しく定時上がり。まっすぐひとりで帰ったらしい。
彼の帰りも同じ頃だろうと踏んでいたあたしは、彼に連絡を入れなかった。
何が起こったか、一瞬わからなかった。
家についてドアを閉めた途端、ものすごい勢いで氷川くんはあたしの元にやってきて、肩を思いきり押した。
ガシャン、と大きな音。あたしはドアノブに背中を思いきりぶつけた。
「……ただいま」
痛みを感じながらも帰宅の挨拶をしたあたしは、随分マヌケだったと思う。
「何でっ……」
氷川くんは、苦しそうな顔をした。眉を寄せて、左の口の端が歪んで下がる。言葉が続かないみたいで、そのまま俯いていた。
彼がこういう顔をするとき、あたしは「しょうがないな」という気持ちになる。どうしてそう思うのかはわからないけれど、心が自動的にそう動いてしまう。
「ごめんね」
すうっと深く息をしてから、あたしは彼が握りしめていた左手をとった。
「情報システムの混乱があったでしょ? その影響で大変だったの。所属の変更がシステムに反映されてなくて、全部手動で直さなきゃいけなくて」
「それは、知ってる」
「……ごめんね」
何に謝っているのか、あたしはわからない。でもそれ以外、何を言っていいかもわからない。
氷川くんはあたしの手を振り払って、リビングに戻っていった。
その日以来、あたしは帰宅の連絡を欠かさないように気をつけた。連絡だけじゃなくて……あたしは彼の機嫌を損ねないように、細心の注意を払って暮らしていた。
◇◇◇
「なっちゃん、ちょっと」
営業一課長である市谷桂さんに呼び止められたのは、それから二週間経った頃だ。
市谷さんも同期入社だけれど、さん付けしているのは、他の同期とは事情が少し違うから。彼はこの会社――アレニウス・ジャパンの会長の御曹司、というバックがあるからだ。
ただこれは公然の秘密で、単なる事実。若くして営業課長になったのは、本人の実力に因るところ。でも、それもきっと彼の立場上、そう努力するように筋道がつけられていたんだろうと思う。
御曹司ということもあって、彼もまた女性に人気がある。営業らしく誰にでもフランクだし、同期に「敬語は許さない」と笑いながら宣言するあたり、人との距離感が良くわかっている。
高身長で、切れ長の瞳を見開いて笑うのがステキだ。あたしも入社当初は、憧れていた。もちろん、平凡なあたしの手に届く人じゃないとわかっていたから、アイドルを見るような気持ちだったけれど。
「今、時間ある?」
「えっと、うん。ちょうどお昼取りに行くところだよ」
「弁当?」
「いや、コンビニに買いに行こうかなと」
「ちょうど良かった。ケータリングで取った弁当が余ってるから、会議室で食べない? 話したいこともあるし」
有無を言わせないあたり、生まれ持ったものなのか、リーダーのトレーニングを受けた結果なのか、あたしはその誘いを断れなかった。
「……うん。お茶淹れましょうか」
「おー、頼むね。じゃあ10分後に第二会議室」
市谷さんは、あの笑顔を見せて去っていく。――あたしはなぜか、妙な罪悪感に襲われた。