* 1 * 喪失と夢の日々。
「ふざけんなよ……」
聞いたことのない低い声。相手があたしの肩を思いきり突き飛ばした、と気づいたのは、しばらくしてからだ。壁に背中を強く打って痛みを感じた。
「……ごめんなさい」
あたしは謝った。何が悪かったのかはわからない。ただジンジンと響く背中の痛みが、そうさせた。
「二人でいるときは、ケータイ見えるところに置いておけって言ったよな」
「ごめんなさい……」
「何で俺の見えないところでとったんだよ、その電話」
「仕事の電話だったから」
「お前の仕事内容なんて、俺には筒抜けなんだよ。見えないところでとる必要ないだろ」
もう一度、謝罪の言葉を口にしようとしたとき、彼はあたしの頬を打った。
「……っ」
「ふざけんなよ、謝ればいいと思ってるだろ」
鉄の味がした。きっと口の中が切れたんだ。――あたしはもう、限界だった。
「……もう、無理」
手にしたままのケータイ、玄関に置きっぱなしだったハンドバッグ。それだけを手にして、あたしは部屋を出る。涙は出なかった。一ヶ月前から、こうすべきだった。
安いパンプスからは、それなりに安い音がする。慣れた道を駆け抜けながら、今朝のテレビの占いコーナーを思い出していた。……確か、順位は最低だった。
街灯が少ないこの夜道を、不安に思い始めたのは一ヶ月前だった。
それまでは、暗い道も怖いとは思わなかったのに……。
何でこんなことになっちゃったんだろう?
あたしは、幸せなはずだった。
氷川弓弦くんは完璧な彼氏だった。あたしにはもったいないくらいの。
同期入社で、優秀な営業マン。人望も厚い。少し幼いけれど、甘い顔立ち。細身のスーツを着こなすところなんて、女の子の人気も高かった。
つきあい始めた頃は、随分とやっかまれたけど、彼はあたしとの付き合いを隠さなかったから、やがて嫉妬の視線も消えていって公認カップルになった。
だから……あたしたちは、このまま結婚するものだと思っていた。
そう、だからこそ、あたしは自分から「一緒に暮らさない?」って言った。週の半分は彼の家に入り浸っていたのだから、その方が都合がいいと思ったんだ。
ワクワクしながら、部屋を探したんだ。一緒に不動産屋さんをまわって、夫婦に間違われたり。IKEAに行って、お互いの共通の好みを知りながら家具を見つけたり。
幸せになれると思ってた。これから、ふたりでいろんなことをしていくんだって。段階を踏んで、あたしたちは家族になるんだって。
だけど、彼は変わった。知らなかっただけ、ううん、目を瞑って見ないようにしていただけなのかもしれない。
毎日、あたしのケータイをチェックするようになった。休日は行き先をきちんと告げないと激昂するようになった。女子会に行ったとしても、そこに男がいなかったかチェックするために迎えに来る。
友達には「愛されてるね」なんて言われちゃって、あたしは曖昧に頷くしかなくて。
――そして一ヶ月前、初めて氷川くんはあたしに手をあげた。