前編
深夜、畳敷きの狭い部屋。仕事でへとへとになって帰る、社会人の一人暮らしの小さな癒やし。
ある日、流れてきた異世界モノのアニメ。
男キャラと女キャラが出てくる、まあお決まりの流れってやつだ。それは毎週金曜日の夜、深夜にきまって放映されていた。
しかし、おかしなことに誰もそのアニメを知らなかった。職場の人も、友人も、誰一人知らないアニメ。
今は動画があるから、誰も知らないのも仕方ないか。マイナー過ぎて、誰も知らないのだ。
そのアニメは録画もできなかった。
友人から譲り受けたテレビが古く、いまいち不調だったのだろう。
他の番組は何事もなく録画されるのに、そのアニメだけはだめだった。
だから俺はきまってリアルタイムでそのアニメを見続けていた。
別に面白くもなかったが、面白くなくもなかった。
癖があるのに絵が変に綺麗で、印象に残っていたというのもある。
よくある話だ。そう思っていた。
今日のこの瞬間までは。
*
「ミレナ・ロディック嬢! きみとの婚約を、破棄する!」
屋敷の大広間に、俺の声が響いた。
磨き抜かれた大理石の床、ざわめく貴族たち。
視線のすべてが、俺と彼女――ロディック家の伯爵令嬢、ミレナに注がれている。
ミレナは一瞬だけ泣きそうな顔になり、何か言いかけたように唇を動かした。
だが、次の瞬間にはツンとした鼻先を上に向けて、いつもの冷ややかな微笑を浮かべていた。
「……そう。薄々分かっておりました。ついにこの日が来たのですね。ヨハン様が私にご興味がないということも、存じていました」
「この、ヨハン・アルトハイム。アルトハイム公爵領を継ぐ者として、美しさの対極にある行いを、もう隠しだてつもりはない! 学園での試験の不正。婚約者のいる男をたぶらかす不貞行為。他の令嬢と共謀して、とある令嬢をいじめた件――すべて証拠は上がっている!」
俺がそう言うと、周囲の貴族たちがどよめいた。
「ヨハン様からの婚約破棄? センセーショナルだわ」
「ひどいわ、いじめていただなんて。おかわいそう、アマリリス様」
「ミレナ様はお美しいお顔をして、存外おそろしいのだな」
まるでこの婚約破棄を待ち望んでいたかのようだ。
けれど、彼女はただ薄く笑って言った。
「不正……それが、あの子の言葉を信じての判断なのですか?」
「俺は真実を見極めたつもりだ」
「『つもり』ですか」
その一言で、なぜか胸がざらりとした。
見下すようでも、泣きつくようでもない。
ただ、諦めのような静けさがあった。
ミレナはゆっくりとドレスの裾を持ち上げ、優雅に一礼する。
「では、ヨハン様。あなたの幸福をお祈りいたしますわ。わたくしの『代わり』の方と、お幸せに」
そして振り返らずに、静かに歩み去っていく。
まるで、最初からこの結末を受け入れていたようだ。
そして、俺は隣で震えるかわいそうなアマリリスの肩を抱く。
……だというのに。
胸の奥が、妙にざわついて仕方がなかった。
(なんだ……この感じは)
ミレナの背が扉の向こうに消える。
ひるがえる赤いドレス。
そして、次の瞬間、俺は息をするのを忘れていた。
全てを思い出した。
これは、あのアニメの第一話だ。
そして俺は悟った。
婚約者を断罪し、婚約破棄をし、世界でも有数の魔力持ちの人材を国から追放して国庫に大打撃を与え、女に溺れて破滅する能なしのポンコツ公爵。
まさしく俺は、ヨハン・アルトハイムになっていた。
*
これは非常にマズイパターンだ。
俺はあのアニメ『捨てられ令嬢の逆襲劇 ―婚約破棄されたわたくしは、腐敗した貴族を破滅させて王宮を掌握いたしますわ―』の中の登場人物、ポンコツ公爵ヨハン・アルトハイムだった。
ヨハンは公爵の跡継ぎという身分でありながら、ろくに領主の勉強もせず、財力にものを言わせて悪友と遊び暮らす。
そして、ちょっと顔のかわいいアマリリスという平民の誘惑に負け、婚約者である伯爵令嬢ミオナを遠ざけるのだ。
魔力持ちのミオナは一人で生き延びるために奮闘し、能力が開花。
追放先で敵国の王子と出会って、新たな恋に進む。
そして、敵陣営の花となったミオナは、王子に寵愛されつつ、戦のブレーンとして活躍。
自分を破滅させたヨハンに、スパイを使っていくつかのハニートラップを仕掛ける。ヨハンはまんまとそれにのり、今度はアマリリスを捨てるのだ。アマリリスは激怒し、ヨハンの漏らした国家の機密情報を敵国に全て流してしまう。
こうして裏切り者として、財も縁故も無くしたヨハンは、追い討ちをかけるように戦に負ける。そして、王族や他の貴族と共に敵国の奴隷となり、朽ち果てたボロ小屋で暮らし、死んだように生きていく。
「そんなのは嫌だー!!」
なんのために産まれてなにをして生きるのか。
そういうの分かっとけよって歌もあったじゃないか。
なんのために転生したかは分からないが、何をして生きるかくらい自分で決めたい。
俺はこの異世界で、のんびり猫でも撫でながら暮らしたいんだぜ……!
自室の金縁の鏡には、筋肉のないだらしない体とパンパンの白パンのような丸顔が映っている。
おい、ヨハンよ。
運動もしないくせに食いすぎだ。
前世の記憶が戻った俺は、婚約破棄にざわめく階下の貴族たちの話し声も耳に入らないほどに考えに浸っていた。
考えろ。考え続けろ。
きっとまだ方法はあるはずだ。
*
「ねえ、お父様、お母様? 今良い?」
婚約破棄をされたミオナは、厳粛な面持ちで両親に告げた。公爵とまではいかずとも、伯爵家としては立派な建物だ。伯爵夫妻は、夫の書斎で今後のことを話し合っていたので、当人のミオナが登場したのは都合が良かった。
「どうしたんだ? ミオナ」
と、伯爵が尋ねた。
ミオナは勝ち気そうに見られるつり目がちな目を、どことなく不安そうに揺らめかせた。
「どうもおかしいのよ。手紙が届いたのだけど、ヨハン様が変なの。婚約破棄は予想通りだったのだけれど、その後、謝罪文と慰謝料が届いたわ」
「なんだって」
「ありえないわ。あのケチ臭い公爵様がそんなことするはずはないもの」
夫妻は身も蓋もない感想を述べた。しかし、ヨハン公爵といえば社交界でいい噂をほとんど聞かない。
公爵の唯一と言っていい美点は金があるということだけだ。それも、婚約者や領民に使うわけでもない。自分の欲望のままに行動する。
もともと公爵の祖母とミアナの祖母が懇意にしており、その家と家同士の親交がなければ、この婚約の話も浮上すらしなかっただろう。
それほどまでに悪評高い人物だ。
「大勢の前で婚約破棄をして、恥をかかせて悪かったと。幼い頃、1足す1は3と言って、絶対に訂正しなかったあのヨハン様がよ?」
夫妻は顔を見合わせた。
それは、確かにおかしい。
「アマリリスとのことは芝居だ、と書いてあったわ。後々にミオナに咎が及ばないように、ああするしかなかった、と。それに、ミオナは魅力があり、才能に溢れているから公爵家では勿体ない、国に輿入れすべきだと言ってきたの。公爵家から推薦したと書いてあったの。そして、さっき正式に王家からの招待があったわ。ねえ、そんなことある?」
夫妻は首を振った。
「ないな」
「ないわね」
ミオナは神妙に頷いた。
「そうなのよ、おかしいでしょう? いったい何を考えているのかしら。まるで別人よ」
*
学院では、庭園の端のガゼボに座っているアマリリスを、数人の男子学生が取り囲んでいた。
皆、ヨハンの取り巻きだ。
「聞いてよ、ひどいの。女の子みんながあたしをいじめて⋯…くすんくすん」
「だ、大丈夫だよアマリリス! 俺たちがついてるじゃん」
「そうだぞ、泣くなよ」
「僕たちはアマリリス嬢の友達なんだから」
「そうそう。みーんなオトモダチ、だろ」
「それに公爵様がありえないの。婚約破棄したくせに、と結婚はしないって。意味分からないよね?」
「嘘だろ」
「じゃあ金はどうなるんだ」
「え、アマリリス、お前、ヨハンに取り入ったんじゃなかったのか? ていうか、その喋り方いい加減やめろよ」
アマリリスは小動物のような可愛らしい顔立ちを、醜く歪めた。
「そのはずだったわよ! でも……あの豚公爵ったら、婚約破棄のときの言葉は全て、あたしのことだって言ったのよ! しかも、王城のパーティーで!」
「学園での試験の不正。婚約者のいる男をたぶらかす不貞行為。他の令嬢と共謀して、とある令嬢をいじめた件、……まあ、確かにそうか」
「取り繕うのどれだけ大変だったと思ってるのかしら!? ねえ、あんたたちからも言ってやってよ。急に豚が知能を持ったみたいで、気持ち悪いの。誰かに洗脳されたんじゃないかしら」
「うーん、そりゃあ厄介だな」
「てかあいつ、付き合い悪くなったよな。ぶよぶよだったのに調子乗りやがって。豚が色気づいてもただの豚だろ?」
「はは、違いないな」
「おーい、駄目だぞ、俺たちとヨハンはオトモダチなんだからよ。え、おまえらどうしたんだよ。血相変えて、何見て……あ? 誰?」
ガゼボに突然に現れた身なりのよい若い紳士は、懐から羊皮紙をサッと出した。
「失礼いたします。アルトハイム公爵家の執事、バーニッシュと申します」
「公爵家の執事? えっ、な、なんで。別の人だったよな?」
「ええ。先日、従者より執事に引き上げられたのです。本日は主の代理として、借金の取り立てに伺いました」
「借金の取り立て!? やだな、そんなのあるわけないだろ。証文もないんだし。って、ある!? ほんとに? ヨハン、そんな知能があったのか? いやっ、無礼っていうか! 違うんですって、待ってくださいよ」
「おい、話が違うだろ」
「アマリリス、お前がうまくやらないせいだぞ」
「なんであたしのせいなのよ!」
*
「最近のヨハンの態度は見違えるようだな。体つきや顔つきもかわって。騎士になりたいと話したよ。剣術や鍛錬の倶楽部に入るようだ」
「ヨハン様ですよ、あれ。見違えましたよね。公爵らしい服と言われて驚きましたが。薄っぺらい派手なものでなく、というのが意外でしたね。体型も変わられて! シュッとされましたよね」
「ヨハン様、全て食べられましたよ。野菜も。しかも、ねぎらってくださった。別人のようです」
「最近、ヨハン様すこし変わったよね? 痩せたらわりとカッコいいというか。ヤダッ、もう、そんなんじゃないわよ!」
「……といったような感じです」
執事のバーニッシュの報告を聞いて、俺はニマニマと口角をあげた。
いいだろう、上出来じゃないか。
「ふ、ふ、ふ、よしよし……いい感じだぞ」
バーニッシュは元々外国から流れてきた異民族らしい。まだ若くて俺よりいくつか年上のようだが、家族もおらず、瞳の色が左右で違う。青と赤っぽい紫だ。とてもきれいだと思ったのでそう言ったところ、妙に懐かれた。普通のことを言って好かれるのは、なんとなく居心地が悪かったが、仕方がないのでいろいろと身の回りのことを頼んでみたところ、すごく速い。
フットワークが軽いっていうんだろうか? とにかく実力があるので執事に引き上げて、代わりに銀食器や服をくすねていた悪徳バトラーをクビにした。
家令の重鎮ミスター・ブラウンがいるので、人事を変更しても、特段屋敷の業務が滞ることはなかった。
この人、おじいちゃんなのに物凄く仕事ができる。
バーニッシュを引き上げたいと話に行ったとき、普段かけてない眼鏡をかけて、熱があるかしげしげ眺められたが、最終的にはミスター・ブラウン納得してもらえた。
バーニッシュのおかげで、王家にもすぐ話がついた。
王様が父に言ったことには、
「いや、すごく気に入った! あの娘はミオナというのか。王子とも気が合って万々歳だよ。これで魔力量の高い跡継ぎが産まれるだろう。横取りしたみたいで申し訳なかったな。代わりにといっては何だが、姫をやろう。 魔力も特技もなくて、特に何の役にもたたないだろうが」
「いえいえそんな、姫様だなんて勿体ない」
「まあそう言うな。無口であまり可愛げのない姫でな。だが……そんな娘でも私の子なのだ。可愛い我が子なのだよ。どうかもらってやってはくれないか。不器用だが真面目な娘ではあるんだ」
ということなのだそうだ。
そして俺はとんとん拍子に、無口な姫君との逆玉の輿か決まってしまった。
怒涛の結婚式。
婚約なんてすっ飛ばし、一気呵成に籍を入れてしまった。
王様サイドのこれを逃すと後がないという気迫を感じた。
ろくに顔もあまり見ずに、誓いのキスをして、俺は所帯持ちになったわけである。
それにしても、公爵家に降下するんだから、姫様も災難だ。怒ったり嫌がったりはしてるだろうな。
うん、せめてご不快になられないように、環境を整えよう。
俺はバーニッシュに頼んで、屋敷、特に姫様の部屋をできる限り豪勢に支度させていた。
だから、予想外だった。
姫様が部屋を出て、まさか寝室に来るなんて。
あれ?
姫様の部屋にベッドも置いたよな?
「……お役に立てるか不安ですが、頑張ります」
この人、何か勘違いしてない?
俺は青ざめながら、無表情の姫様に押し倒されていた。
待て待て待て。
あ。
下から見るとまつ毛が長くて、整った顔してるな。
じゃなくて!
「ちょ、ちょっとお待ちください!」
がしっと細い肩を掴むと、姫様はゆるやかに視線を合わせてきた。




