第98話 詩人と風の囁き
午後のカフェ<カオスフレーム>には、
静かな風の気配が満ちていた。
ルフが去ってからというもの、
風が置いていく痕跡が少しずつ増えている気がする。
カウンターでケトルの湯を注いでいると、
扉の鈴が小さく揺れた。
風待ちの少女が入ってきた。
水色のワンピースは今日も柔らかく揺れている。
少女は席につくとすぐにノートを開いた。
ページをめくる手つきが、昨日より軽やかだ。
来ました。
風が続きを書く気がしたので。
その瞳は期待で少しだけきらめいていた。
◇ ◇ ◇
私は風待ちブレンドを淹れながら尋ねる。
昨日の文字、読み返しましたか。
少女は頷く。
はい。
ここにいる、って……
誰の声なのか分からないけど、暖かかったです。
暖かい声。
風は、優しい言葉を拾いたがる。
そう答えると、少女はゆっくりコップを握った。
オグリは鼻をひくつかせて言う。
風が甘いときは、誰かの本音を拾った証拠だ。
ポエールが鎧を鳴らして続ける。
心の声は、戦士の刃よりも静かに届く。
マーリンは筋肉を伸ばしつつ微笑んだ。
今日の風、やわらかいわね。
絶好の風聞き日和よ。
少女は少し照れながら笑った。
◇ ◇ ◇
私はコーヒーを届け、
少女が最初の一口を飲むのを見守った。
その瞬間、店の空気が淡く揺れた。
扉は閉じたままなのに、
紙の端がひとりでにふわりと持ち上がる。
少女のノートのページが、勝手にめくれた。
そこに、
薄い文字が滲むように浮かび始めた。
少女が息を呑む。
私も思わずカウンターから身を乗り出した。
文字はゆっくりと形を取っていく。
ありがとう
少女は目を丸くして呟いた。
ありがとう……
誰に、だろう。
◇ ◇ ◇
マーリンが腕を組んで言う。
誰かの心の中で言えなかった言葉ね。
ポエールも深く頷く。
未完の感謝は、風が最も好む言葉だ。
オグリは新聞を畳み、
短く言った。
誰に向けられたかは、風しか知らん。
だが、必要な場所に運ばれた。
少女はノートを胸に抱きしめた。
ありがとう、か……
きっとどこかで、誰かが言えなかった言葉。
私は少女に問いかける。
風の言葉、重く感じますか。
少女は首を振った。
いいえ、軽いです。
胸の奥が、少しだけ明るくなりました。
◇ ◇ ◇
少女はノートをそっと閉じた。
そのページは、光が差すたびに淡く揺れていた。
また明日も来ていいですか。
もう一つ、風の続きを知りたくて。
もちろんです。
風は続きたがりですから。
少女が扉へ向かうと、
風がふわりとドレスを揺らした。
まるで、ノートの次のページをめくる合図のように。
扉が閉まると同時に、
私はレシピ帳に小さく書き足した。
風は囁きで世界を繋ぐ。
◇ ◇ ◇
――次回予告――
第99話 詩人と風の拾い物
風聞きのノートに、四つ目の言葉が刻まれる。
それは、誰かが落とした
小さな後悔の断片だった。




