第96話 詩人と風待ちの午後
ルフが旅立っていった朝から、
カフェ<カオスフレーム>はどこか広く感じられた。
実際の広さは変わらないのに、
風の抜ける道が増えたように思えた。
昼過ぎ、私は静かな店内で豆を挽いていた。
粉が落ちる音が、やけに優しく響く。
常連たちも今日はどこか落ち着いていた。
オグリは新聞をゆっくりめくり、
ポエールは窓から空模様を眺め、
マーリンは筋肉のストレッチをしながら
風が吹くタイミングを全身で感じ取ろうとしている。
◇ ◇ ◇
扉の鈴が、ふわりと鳴った。
強い風もないのに音が軽かった。
そこに立っていたのは、小柄な少女だった。
薄い水色のワンピースを着て、
肩には小さな布のバッグ。
髪は風にそよぐ雲のように柔らかい色をしていた。
そして、胸に抱えているのは一冊のノート。
少女はカウンターまで歩くと、
少し緊張したように頭を下げた。
ここは、風が通る店ですか。
不思議な質問だった。
私は微笑んで答える。
ええ。
風もお客様のひとりです。
少女はほっとしたように胸を撫でおろした。
◇ ◇ ◇
席に座ると、少女は手元のノートを開いた。
中は、真っ白だった。
一ページも書かれていない。
何を書きたいんですか、と聞くと、
少女は少し照れながら答えた。
風の手紙を集めたいんです。
でも……風はすぐ逃げて、何も残してくれなくて。
私は心がきゅっとなった。
ルフの足跡が消えた朝を思い出したからだ。
◇ ◇ ◇
マーリンが興味津々で近寄る。
風の手紙……良い響きね。
筋肉には無理だけど、心にはきっと届くわ。
オグリがストローを回しながら言う。
逃げるのが風の仕事だからな。
追うのは、詩人か子どもくらいだ。
ポエールは腕を組み、重々しくうなずいた。
風は戦士にもつかまらぬ。
だが味なら、風の心を引き寄せられる。
少女はきょとんとしながらも、
少しだけ笑った。
みんなの言葉が、追い風になっていくようだった。
◇ ◇ ◇
私は少女の前にコップを置く。
隣には、まだ温かい豆の香りが漂うカップ。
まずは、風を待つ香りから始めましょう。
これは、風待ちブレンドです。
少女は両手でカップを包み込み、
そっと香りを吸い込んだ。
ふわりと、店に小さな風が流れた。
少女の抱えていたノートが一枚だけひとりでにめくれる。
そして、その白紙のページに
淡い線が一本だけ浮かび上がった。
少女の目が丸くなる。
風……来たのかな。
私は頷いた。
そうですね。
風は、呼べば来ます。
◇ ◇ ◇
少女は少しの間、ノートを見つめていた。
そして顔を上げ、ほのかに笑った。
ここなら……風が残る気がします。
風の言葉を集めてもいいですか。
もちろんです。
むしろ、この店にぴったりです。
少女は深く礼をして言った。
じゃあ、また来ます。
風を探しに。
扉が開き、柔らかな午後の風が吹き込む。
少女のワンピースを揺らし、
ノートのページをひとつめくった。
まるで風がその子を見送っているようだった。
◇ ◇ ◇
扉が閉じると、
オグリがストローを鳴らしながら言った。
風の手紙集め……新しい常連が増えたな。
ポエールも頷く。
風の使者がまた増えるのは良いことだ。
マーリンは筋肉をきゅっと締めて言った。
あの子、素質あるわね。風筋が強い。
私は笑いながら、カウンターにメモした。
風を待つ午後には、
風の居場所が増える。
◇ ◇ ◇
――次回予告――
第97話 詩人と風聞きのノート
風待ちの少女が再び来店。
白紙だったノートに、風が残した二つ目の言葉が刻まれる。
それは、店の外で誰かが囁いた声だった。




