第95話 詩人と空に還る足跡
夜明け前のカフェ<カオスフレーム>は、
まだ静けさに包まれていた。
昨日の出来事――灰の旅人ルフが名を取り戻した瞬間――
その余韻が、店の空気にやわらかく残っている。
私はいつものように開店準備をしていた。
カウンターを磨きながら、ふと扉の方を見る。
そこに、灰色の足跡が一つだけ残っていた。
昨日はもっとたくさんあったのに、
今朝はもうそれだけになっていた。
まるで風が掃き集め、最後に一つだけ置いていったようだった。
◇ ◇ ◇
そのとき、扉がすっと開いた。
鈴の音が優しく響く。
ルフが外套を羽織り、静かに立っていた。
灰は完全に消え、
かわりに風のような軽さが身体全体から漂っていた。
もう行くんですね。
私が言うと、ルフは微笑んだ。
名を取り戻したら、旅の続きが見えてきました。
足跡も、もう灰ではなく風です。
その声は、昨日より澄んでいた。
◇ ◇ ◇
ポエールが鎧を鳴らして現れた。
旅立ちか。名を取り戻した者には、次の道がある。
その言葉は、騎士の祝福のようだった。
マーリンが横から身を乗り出す。
名を取り戻したなら、筋肉もよく働くはずよ。
あなた、きっと強い風になるわ。
意味はよく分からないが、励ましなのは分かる。
オグリがストローを咥えたまま、静かに言った。
風は止まらない。
名前があると、なおさらだ。
その声には、珍しく感傷が混ざっていた。
◇ ◇ ◇
ルフはカウンターにそっと一枚の紙を置いた。
淡い光を帯びた紙。
灰の旅で焼かれたような焦げ目が、縁だけに残っている。
置いていきます。
これが、私の思い出せた一番古い詩です。
誰に向けて書いたものかは……まだ分からない。
でも、ここが似合う気がして。
紙には短い詩が記されていた。
足跡はすぐに消える
けれど風は
その上に名前を残す
私は胸の奥が熱くなるのを感じた。
◇ ◇ ◇
ルフが扉の前に立つ。
外の空気がわずかに震え、
風の道が開いていくようだった。
気をつけて。
また戻ってきてください。
私が言うと、ルフはゆっくりと振り返った。
戻れたときには、
もう少し長い詩が書けるようになっていたい。
だから、また味を貸してくださいね。
その笑顔は、
旅に出る者の迷いのない光を宿していた。
◇ ◇ ◇
扉が閉まると、
最後に残っていた灰色の足跡が、
風に吹かれてふわりと消えた。
残されたのは、詩の紙片だけ。
その紙片は、風がいつでも読み返せるように、
カウンターの隅でゆっくり揺れていた。
私はレシピ帳を開き、静かに一行を書き足した。
風は名を持つと、旅路を選べる。
そして名を取り戻したとき、足跡は空へ還る。
◇ ◇ ◇
――次回予告――
第96話 詩人と風待ちの午後
ルフが去った日の午後、
カフェにふらりと現れたのは、風を探す少女。
彼女が持っていたのは、風のための空白のノートだった。




