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第94話 詩人と灰の旅人

昼下がりのカフェ<カオスフレーム>に、

 いつもと違う空気が流れ込んだ。


 扉の鈴が鳴ったとき、

 風とは違う、乾いた匂いがした。

 焚き火の残り香に似ている。


 入ってきたのは、一人の旅人だった。

 灰色の外套をまとい、

 肩から靴先まで、薄く灰が積もっている。

 砂漠の向こうから歩いてきたような姿だった。


 カウンターに歩み寄ると、

 彼はしばらく無言でメニューを見つめた。

 そして、ゆっくり顔を上げた。


 ……記憶に、味を貸してもらえますか。


 その声は、かすれていながらも深かった。

 でも、どこか迷子のような響きもあった。


◇ ◇ ◇


 オグリが新聞を畳み、

 ストローを指先でくるりと回した。


 記憶に味、ねえ……

 斬新な注文だな。


 ポエールが鎧を鳴らして近づき、低くつぶやく。

 記憶を探す戦い……困難だが、詩人殿ならば可能だ。


 マーリンは筋肉を伸ばし、

 灰を払うように旅人の周囲をひと回り観察する。


 灰の魔素が付いてるわ。

 この人、普通の旅じゃない。


 私はそっと旅人に声をかけた。


 何の記憶をお探しですか。

 味で思い出せるかもしれません。


 旅人は、少しだけ震える声で言った。


 名前、です。

 私は……自分が誰だったのか、思い出せない。


◇ ◇ ◇


 胸がざわついた。

 名前とは、風の中に残る最初の足跡。

 そこが欠けているというのは、心がどこかで迷っている証だ。


 私は棚から、三種類の豆を取り出した。


 ひとつ、深煎り。

 ひとつ、軽い酸味の豆。

 そしてもうひとつ、香りがどこか切ない豆。


 それらを少しずつ混ぜて、

 灰の香りを払うように焙煎を始めた。


 ぱち……ぱちん……


 その音に、旅人の肩がわずかに震えた。

 音が、何かを思い出させたのかもしれない。


 私は蒸らしの瞬間、

 そっと短い詩を心の中で唱えた。


 名とは、心が風に置いた灯火。

 たとえ灰に埋もれても、必ず残る。


◇ ◇ ◇


 出来上がった珈琲を、旅人の前に置いた。


 これは、灰を払うブレンドです。

 一口だけでも。


 旅人は震える手でカップを持ち、

 ゆっくりと口をつけた。


 一瞬、店内の空気が固まった。

 灰がふわりと浮き、カウンターの上に散る。


 旅人の目が大きく開いた。


 ……風。


 私は息を呑む。


 風……ですか。

 その言葉に心当たりはありますか。


 旅人は、胸のあたりを押さえながら言った。


 思い出す……気がする。

 けれど、全部じゃない……

 もう一口、飲ませてください。


◇ ◇ ◇


 二口目を飲んだ瞬間、

 旅人の周囲で小さな風が渦を巻いた。

 灰が舞い、光がその中に混ざる。


 ひとつの言葉が、旅人の口から漏れた。


 ……ルフ。


 名前。

 それは、風を表す古い言葉でもある。


 私は微笑んだ。


 お帰りなさい、ルフさん。

 灰の向こうから戻ってきましたね。


 ルフは静かに涙を落とした。


 ありがとう……詩人。

 この店に来て……よかった。


◇ ◇ ◇


 風がそっと背中を押すように吹き抜けた。

 灰が完全に消え、

 ルフの目に、確かな光が宿っていく。


 ポエールは満足そうにうなずき、

 マーリンは胸を張って言った。


 名前を取り戻す瞬間は、筋肉にも効くものよ。


 オグリはストローを鳴らしながらつぶやいた。

 灰に勝つとはな……やっぱり珈琲ってやつは強い。


 私はルフの前に、静かにレシートを置いた。


 記憶を取り戻した方は、初回無料です。


 ルフは笑った。

 今日一番美しい笑顔だった。


◇ ◇ ◇


――次回予告――

第95話 詩人と空に還る足跡

名前を取り戻したルフは、

風の道をたどる旅へ戻ることを決める。

別れの朝、残されたのは灰色の足跡と、ひとつの詩。

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