第92話 詩人と風の再来
その朝のカフェは、少しだけざわついていた。
風の通り道になった扉の鈴が、開けてもいないのに揺れている。
カウンターの上の紙ナプキンがふわりと舞い、
ブレンドの湯気がまるで息をするように形を変えていた。
空席の手紙台の上に、薄い文字が浮かび始める。
おはよう、詩人。風です。
私は微笑んだ。
毎日欠かさず届く、見えない客からの挨拶。
それが今や、私の日常の一部になっていた。
◇ ◇ ◇
オグリが新聞を閉じながら言った。
まるで定期購読だな、その手紙。
ポエールが鎧を軽く鳴らして応える。
風が常連になったとは、誇らしいことだ。
マーリンは腕を組んで頷く。
でも毎日ここに来てるってことは、風も意外と暇なのね。
私は笑いながらペンを取り、返信を書く。
おはようございます、風さん。
今日はどんな香りを運んできましたか?
文字を置くと同時に、店の外から風が入り込んだ。
木々の葉を揺らし、コーヒー豆の袋を軽く叩き、
その香りを抱きしめてまた戻ってくる。
今日は懐かしさを運びました。
◇ ◇ ◇
懐かしさ――?
そう読み上げた瞬間、
店内の空気が一段と冷たく澄んだ。
そして、空席の手紙台の上にもうひとつの文字が浮かぶ。
あなたの詩を覚えている者がいる。
その言葉に、胸がざわめいた。
マーリンが眉をひそめる。
まさか、風が詩を伝言してるってこと?
ポエールが真面目に頷く。
風はすべての音を聞く。ならば詩も聞ける。
オグリがストローをくわえながら、ぼそりと。
……伝言配達、風の副業か。
◇ ◇ ◇
次の瞬間、店の扉がひとりでに開いた。
風が一筋、白い光をまとって吹き込んでくる。
その中に、懐かしい声が混ざっていた。
マリエル。
聞き覚えのある声。
柔らかく、それでいて遠くから響く声。
――セレス。
影の詩人。
かつてこのカフェの前に立ち、
風の始まりを告げた人。
◇ ◇ ◇
空席の手紙台の上に、淡い影が形を取っていく。
雲のように揺れる輪郭。
それでも確かに彼女の面影があった。
私は息を飲んだまま、カウンター越しに立ち尽くした。
セレスが微笑む。
風が、あなたを呼び続けていたの。
だから私も、ここまでたどり着けた。
私は震える手でカップを差し出す。
……お帰りなさい、セレスさん。
久しぶりに、珈琲でもいかがですか。
影がふっと揺れ、やわらかな声が返ってくる。
ええ。風の味、少し懐かしい。
◇ ◇ ◇
私はゆっくりとドリップを始めた。
湯を注ぐたびに、香りが立ち上がる。
その香りが、風に混じって店の隅々まで満ちていく。
オグリは新聞をめくる手を止め、
ポエールは鎧の音も立てずに見守り、
マーリンは腕を組んだまま静かに笑っていた。
やがて、カップから白い蒸気が立ち上る。
風がそれを包み込み、セレスの影が少しずつ薄れていった。
ありがとう。
あなたの詩は、風の中でずっと息をしている。
そう言い残し、影は光に溶けて消えた。
◇ ◇ ◇
カウンターの上には、ひとつの言葉だけが残った。
再会の風。
私はペンを取って書き加えた。
また、風の香りの中で。
その瞬間、店の扉がやさしく開いた。
風が一度だけ店内を巡り、
いってきますとでも言うように鈴を鳴らした。
◇ ◇ ◇
――次回予告――
第93話「詩人と再会のブレンド」
セレスとの邂逅を胸に、
マリエルは新しい珈琲再会のブレンドを生み出す。
風と記憶が混ざり合う、香りの物語。




