第91話 詩人と空席の手紙台
朝の光が、まだ柔らかい。
カフェの扉を開けると、昨日までとは少し違う空気が漂っていた。
静かで、でも確かに何かがいる気配。
カウンターの端に、
いつの間にか木製の小さな台が置かれていた。
紙を挟むための留め具がついている。
そして、その上には一枚の白紙。
誰が置いたのか、まるで見当もつかなかった。
◇ ◇ ◇
ポエールが鎧を鳴らして台を覗き込む。
詩人殿、これも風の仕業か?
ええ、たぶん。……でも、今度は送られる側ではなく、書かせる側みたいです。
マーリンが湯気の立つハーブティーを持ってくる。
つまり、風の手紙台。詩人限定の通信端末ね。
オグリがストローを回しながら首をかしげる。
宛先不明、差出人不明、でも配達は完璧……それが風だな。
みんなの言葉に、私は思わず笑ってしまった。
確かに、そう言われると妙にしっくりくる。
◇ ◇ ◇
そのとき、白紙がふるりと震えた。
風も吹いていないのに、紙が勝手にめくれる。
そして、文字が浮かび始めた。
詩人よ、ここはあなたの返事を書く席。
私は息を呑んだ。
まるで誰かが、店の中から声を届けているようだった。
ポエールが低くつぶやく。
風がまた姿を持ったのか。
マーリンが腕を組んで微笑む。
違うわ、たぶん姿を持たないからこそ、
こうして台を通して話すのよ。
◇ ◇ ◇
私はペンを取り、ゆっくりと書いた。
風さん。あなたの手紙、確かに受け取りました。
お返しに、香りを一つ贈ります。
書き終えると、紙がふっと光った。
そして、香ばしい豆の匂いが漂い始めた。
焙煎したばかりのような、温かく優しい香り。
その香りに反応するように、文字が再び浮かぶ。
受け取った。
この香りは、帰る風の味がする。
◇ ◇ ◇
マーリンが目を丸くした。
返事がきたわ。しかも秒速。
オグリが笑う。
風の通信は早いな。Wi-Fi泣かせだ。
ポエールが真剣な顔でうなずく。
風こそ、最古にして最速の使者である。
その言葉に笑いながら、私はまたペンを走らせた。
旅の風も、帰る風も、
みんなカフェで一休みしていくんです。
紙の上に、淡い光の渦が生まれた。
その中に、かすかな声が混ざった。
だから私は、あなたの店を通り道にする。
◇ ◇ ◇
風が吹いた。
ページがめくられ、ノートの隣の空間に、
まるで誰かが座っているような影ができた。
透明なカップがひとりでに揺れる。
珈琲の香りが広がる。
私は静かに微笑んだ。
ようこそ。風のお客様。
◇ ◇ ◇
ポエールが小さく言った。
詩人殿、あれは……本当に風なのか?
たぶん。
でも、風に姿を与えたのは、ここにいるみんなの詩心ですよ。
オグリが頷く。
つまりこの店は、風の常連席もあるわけだ。
マーリンが笑って言った。
なら追加料金は取らないとね。空気代で。
店内に笑い声が満ちる。
空席だったはずの席が、
まるで一緒に笑っているように見えた。
◇ ◇ ◇
私はそっと手紙台のページを閉じた。
風がその隙間から抜け出し、
扉の鈴を鳴らして外へ出ていく。
その音が消えたあと、
紙の上にただ一行だけ、残っていた。
また、午後の風で会おう。
◇ ◇ ◇
――次回予告――
第92話「詩人と風の再来」
カフェの空席に座る見えない常連。
次に風が運んできたのは――懐かしい声と、新しい詩の始まり。




