第90話 詩人と雲の手紙
朝。
雨のあとに残る匂いは、珈琲に似ている。
少しだけ苦くて、そして透きとおっている。
カフェ<カオスフレーム>の看板を拭いていると、
空から一枚の紙がひらりと落ちてきた。
雲をすくったような白さ。
触れると、しっとりと冷たい。
拾い上げると、指先に淡い光が残った。
紙の表面に、薄い文字が浮かんでいる。
――風より、詩人へ。
◇ ◇ ◇
店に戻り、カウンターに手紙を置いた。
光の加減によって、文字がゆっくりと現れていく。
まるで、風が語る速度で言葉が生まれていくようだった。
最初の一文は、詩のようだった。
風は、誰かの呼吸を運ぶもの。
だから私はあなたの声を覚えている。
私は胸の奥が温かくなるのを感じた。
昨日、雨の旅人が残していった言葉――
それがまだ空のどこかに漂っていたのだろう。
◇ ◇ ◇
ポエールが鎧を鳴らして覗き込む。
詩人殿、また手紙か?
ええ。差出人は……風、みたいです。
オグリがストローを外し、
新聞越しにぼそりと言った。
風が書いた手紙、か。……どうやって切手を貼るんだ?
マーリンが肩をすくめる。
そんなもの貼らなくても届くのよ。風は空気便よ。
その言葉に、店内の空気が少しだけ和んだ。
◇ ◇ ◇
再び手紙に目を落とす。
文字がゆっくりと増えていく。
まるで、話しながら書かれているようだ。
君が旅の焙煎で生み出した香り、
それが空を満たしている。
雨となり、雲となり、
やがてこの手紙になった。
……焙煎の煙が、雲になった?
そう思った瞬間、
店の窓から差し込む光が柔らかく揺れた。
まるで、空が頷いたようだった。
◇ ◇ ◇
詩人よ。
あなたが生んだ言葉は、いま風の群れの中で歌われている。
それぞれが名を持たず、
ただ香りとして空を旅している。
私は息を呑んだ。
この手紙は、言葉の還流だ。
焙煎した豆が香りを放ち、
その香りが空に溶け、
今こうして風の詩として戻ってきている。
◇ ◇ ◇
マーリンがカウンターに肘をつく。
ねえ、それってつまり……世界が詩人のカップみたいなものじゃない?
そこに香りを注いだら、空が返してくれるってこと。
ポエールが鎧越しに頷く。
詩人殿の風は、もはや世界の呼吸と同調しているのだな。
私は笑って言った。
ええ、でも……まだ味を見ていません。
◇ ◇ ◇
私は手紙の上に小さなカップを置いた。
そして、昨日の雨のブレンドを少しだけ注ぐ。
湯気が立ち上る。
その蒸気が手紙に触れた瞬間――
文字が香りに変わった。
甘くて、少し切ない風の匂い。
まるで影の詩人セレスの声が、
空気の中でささやいているようだった。
風は手紙を渡した。
あとは、詩人が返事を書く番。
◇ ◇ ◇
私はペンを取った。
手紙の余白に、ゆっくりと書き足す。
あなたの言葉、確かに受け取りました。
この香りを、もう一度世界に返します。
書き終えた瞬間、
風が店の中を一巡した。
手紙がふわりと舞い上がり、
湯気の中に溶けて消えた。
◇ ◇ ◇
ポエールが呟く。
……消えた。詩人殿、風は読んだのだな。
ええ。手紙は風に戻りました。
マーリンが微笑む。
じゃあ次はあなたの番ね。返事を香りで出してあげなさい。
オグリがストローを咥えながら言った。
風の郵便なら送料ゼロだ。
笑い声が広がる。
その中で、私は心の中で呟いた。
詩は、届くために書くんじゃない。
風になるために書くのだ。
◇ ◇ ◇
――次回予告――
第91話「詩人と空席の手紙台」
雲の手紙が消えたあと、
カウンターの隅に現れた空席の手紙台。
誰もいないはずのその席で、風がページをめくっていた――。




