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第89話 詩人と雨の日の注文

空の色が、静かに沈んでいく。

 昼過ぎから降り始めた雨は、

 屋根を叩く音をリズムに変え、

 店の空気を少し冷たくしていた。


 客の姿はまばら。

 ポエールは窓際で新聞を読んでおり、

 オグリはストローをくわえたまま、雨音に耳を傾けている。

 マーリンはハーブティーを温めながら、

 「筋肉は冷やすな」と言ってローブをぎゅっと絞っていた。


 私はカウンターで、

 雨の日専用のブレンドをゆっくりとドリップしていた。


◇ ◇ ◇


 扉の鈴が鳴る。

 それは雨の音よりも静かだった。


 立っていたのは、ずぶ濡れの旅人。

 灰色の外套をまとい、

 手には古びた小さな手帳を抱えている。


 彼は少し躊躇してから、カウンターに近づいた。


 ……雨宿り、してもいいですか。


 もちろん。いらっしゃいませ。


 私がそう言うと、

 彼はほっとしたように椅子に腰を下ろした。


◇ ◇ ◇


 カップを置く前に、私は尋ねた。


 温かいものをお出ししますね。

 何になさいますか?


 彼は少し考えて、

 手帳を開き、そこに書かれた一行を指でなぞった。


雨の音を飲みたい。


 ……詩的な注文ですね。


 雨の匂いのする珈琲をお願いできますか。


 その言葉に、

 カウンターの空気がふっと変わった。

 ポエールが新聞を畳み、

 オグリがストローを外し、

 マーリンが杖を握る。


 まるで全員が、

 詩の実験に立ち会うような空気だった。


◇ ◇ ◇


 私は小さく頷いて、豆を取り出した。

 灰色の皮を持つ、湿気を吸った豆。

 旅の途中で拾った雨宿り豆と呼ばれる種類だ。


 焙煎台に火を灯すと、

 ぱち、ぱち、と音がする。

 そのリズムが、屋根を叩く雨音と重なった。


 蒸気が立ち上がり、

 雨と焙煎の香りが混ざり合う。


 私は心の中で詩を紡いだ。


雨は透明な焙煎師。

香りを湿らせ、言葉を柔らかくする。


◇ ◇ ◇


 出来上がった珈琲は、

 琥珀色の中に少し灰の光を宿していた。


 カップを旅人の前に置く。


 ……どうぞ、雨のブレンドです。


 彼は両手でカップを包み、

 一口、静かに飲んだ。


 その瞬間、雨音がやんだ。

 空気が変わる。

 店の中のすべてが、息を潜めるように沈黙した。


◇ ◇ ◇


 旅人の頬を、一筋の涙が伝った。


 ……この味、覚えています。

 昔、ある詩人が私に淹れてくれた。

 彼女はこう言ったんです。


雨の日こそ、心を洗うチャンスだって。


 私は息をのんだ。


 彼が差し出した手帳の最後のページに、

 見覚えのある筆跡があった。


――セレス


 影の詩人。

 そして、風の始まりの名。


◇ ◇ ◇


 旅人は微笑んだ。

 彼女の言葉を、もう一度味わいたくて来ました。

 ……でも、今ようやくわかりました。

 詩は味として残るんですね。


 私は小さく頷いた。


 香りも、味も、言葉も。

 全部、風のように巡り続けるんです。


 旅人は空になったカップを見つめ、

 静かに言った。


 この香りを、少し持ち帰ってもいいですか。


 もちろん。風の分け前です。


◇ ◇ ◇


 彼が扉を開けると、

 外の雨が嘘みたいにやんでいた。

 雲の切れ間から、

 柔らかな光が差し込んでいる。


 ポエールがぽつりと呟いた。

 詩人殿……今の客は、風そのものだったのでは?


 私は微笑んだ。

 ええ、雨に化けた風、ですね。


◇ ◇ ◇


 カウンターの上には、

 濡れた手帳の切れ端が一枚残されていた。


また、香りの向こうで。


 その文字が乾く頃、

 外では新しい風が吹き始めていた。


◇ ◇ ◇


――次回予告――

第90話「詩人と雲の手紙」

雨が過ぎた翌朝、

カフェに届いたのは雲のように透けた手紙。

差出人は――風そのものだった。

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