第88話 詩人と風の顧客名簿
朝、カフェ<カオスフレーム>の扉を開けた瞬間、
風がノートをめくった。
カウンターの上に置いていた風のレシピ帳が、
ページを勝手に開いている。
紙の間に、何か小さな紙片が挟まっていた。
見覚えのない筆跡。
そこには、短い詩が一行だけ書かれていた。
コーヒーの香りの奥に、旅立ちの約束がある。
裏には、名前が記されていた。
リリク
胸が熱くなった。
旅の少年――あのピアノの詩人が、
ここへ風に乗って手紙を残したのだ。
◇ ◇ ◇
昼を過ぎる頃、
店の常連客たちが次々に集まってきた。
オグリは新聞をたたみ、
ポエールは鎧を少し磨きながら腰を下ろし、
マーリンは筋肉を伸ばしながら言った。
マリエル、何だか風の香りが違うわね。
そうですね。……誰かが、詩を残していったみたいです。
私はレシピ帳を広げて見せた。
ページの隅に、リリクの文字が光っていた。
ポエールが感嘆の声を漏らす。
詩人殿、風がまた詩人を運んだのだな。
風が風を呼ぶ。素晴らしい循環だ。
◇ ◇ ◇
その日から、
カフェのカウンターに一冊のノートを置くことにした。
来店した客が、好きな一言を残せる風の顧客名簿。
最初は数人だった。
旅の商人が香りの記録を書き、
町娘が甘さの詩を残した。
子どもが泡の顔を描いたページもある。
ページはゆっくりと埋まっていく。
私はそのノートを読むたびに思う。
――言葉も香りも、通り過ぎるだけで十分だと。
◇ ◇ ◇
ある日、ひとりの老婦人が来店した。
白い髪を結い、杖をつきながらカウンターへ歩み寄る。
彼女は小さな声で言った。
この店、昔、私の友達が通っていたのよ。
彼女はよく詩を飲む店って言ってたわ。
そう言って微笑むと、
老婦人はノートを開き、ゆっくりペンを取った。
彼女の言葉が、まだ香っていますように。
――セレス
その筆跡を見た瞬間、息をのんだ。
影の詩人の手紙に添えられていた、
最後の署名と同じ名前。
◇ ◇ ◇
老婦人はカップを傾け、
ほんの一口だけ午後の風ブレンドを飲んだ。
……やっぱり、懐かしい香りね。
彼女がこの店を好きだった理由、わかった気がする。
そう言って、風のように去っていった。
扉の鈴が鳴り、
その音がまだ響いているうちに、ノートのページがめくれた。
セレスの書いた文字の隣に、
いつの間にかもう一行、文字が浮かんでいた。
また、風のそばで。
◇ ◇ ◇
私はそっとペンを取った。
名前とは、風の残した形。
そして顧客名簿とは、風の通り道。
書き終えると、
オグリがストローを鳴らしながら言った。
お前のノート、もう店より人気あるぞ。
これじゃ詩じゃなくて観光名所だな。
ポエールが笑う。
風が集う場所こそ、真の砦である。
詩人殿、我々はその守衛だ。
マーリンがハーブティーを差し出す。
詩人には休息も必要よ。飲みなさい、マッスルティー。
……ありがとうございます。でも、ちょっと濃い。
笑い声が弾けた。
その響きが、風と混ざって天井に広がる。
◇ ◇ ◇
夕方。
カウンターの上のノートが静かに開いた。
最初のページから最後のページまで、
誰かの言葉がびっしりと並んでいる。
風の通り道。
そこに詩が、確かに生きていた。
私はペンを取り、最後の一行を書いた。
今日も風が来た。
名前を運び、香りを残していった。
◇ ◇ ◇
――次回予告――
第89話「詩人と雨の日の注文」
穏やかな日々が続くある午後、久々の雨。
雨音に誘われて現れたずぶ濡れの旅人が、
マリエルに雨の詩を託す――。




