第87話 詩人と風のレシピ帳
午後の光が、カウンターを金色に染めていた。
客たちの賑わいが少し落ち着いた頃、
私は棚の隅にあった古いノートを取り出した。
革の表紙は少し焦げていて、
影の詩人が残した古いレシピ帳によく似ている。
マリエル、それ……新しい日記?
マーリンがハーブティーを片手に覗き込む。
ええ。詩の、そして珈琲のレシピ帳です。
私はページをめくり、ペンを走らせた。
第一章 焙煎とは心の温度。
弱火で焦らず、風の流れを読む。
……まるで魔導書ね。
魔法みたいなものですよ。香りは“記憶の呪文”ですから。
◇ ◇ ◇
ポエールが鎧を鳴らして椅子に座る。
ならば、騎士の名誉にかけて我が味を記してくれ!
騎士の味?
鉄の湯気ブレンドだ!
……美味しいんでしょうか、それ。
味より信念で勝負だ!
鎧の中から響く真剣な声に、
マーリンとオグリが同時に吹き出した。
◇ ◇ ◇
オグリさんのはどうします?
俺か? 馬耳東風スペシャルだな。
どんな味なんです?
聞き流したくなる味だ。
……それ、売れませんよ。
笑い声が店内を包む。
けれどその笑いの中には、
旅を経て戻った安心感が確かにあった。
◇ ◇ ◇
私は再びペンを走らせた。
第二章 ブレンドとは記憶の和音。
苦味と甘み、孤独と笑い。
どれも欠けては旋律にならない。
書きながら、
焙煎の香りと共に旅の情景が蘇っていく。
鐘楼、灰のカフェ、夜明けの丘――。
そのすべてが、
いまこの一冊に還ってきている気がした。
◇ ◇ ◇
詩人殿、どんな名を付けるのだ?
ポエールが尋ねる。
風のレシピ帳です。
風、か……。形のないものに名を付けるとは、詩人らしい。
香りも、言葉も、風と同じ。
留められないけれど、確かに人の心に触れるんです。
そう言いながら、私は一行を書き足した。
レシピとは、風を留める試み。
だからこそ、美しい。
◇ ◇ ◇
オグリがストローを噛みながら言った。
風のレシピ、ね。……なら、次のページに旅の味を残せよ。
旅の味?
お前がどんな風に帰ってきたか、その証拠になる。
彼の声はいつになく穏やかだった。
私は頷いて、
第三章 帰還のブレンド と記した。
帰るとは、香りを分け合うこと。
誰かの笑いが、心の温度を調整してくれる。
◇ ◇ ◇
ページを閉じると、風が店内を通り抜けた。
レシピ帳の紙が一枚、ふわりと揺れた。
まるで風自身が、そのページを読みたがっているみたいに。
さて……この本がいっぱいになる頃、
またどこかへ旅に出たくなるんでしょうね。
風の詩人に、安息はないのか。
安息も詩になりますよ。きっと。
◇ ◇ ◇
窓の外では、午後の光がやわらかく沈んでいく。
鈴の音が、遠くで微かに鳴った。
私は新しいページを開きながら、
小さく息を吐いた。
第零章 この本を開いたあなたへ。
今日もよい香りと、よい詩を。
◇ ◇ ◇
――次回予告――
第88話「詩人と風の顧客名簿」
マリエルの風のレシピ帳は静かに評判を呼び、
やがて店のノートは“風に選ばれた客”たちの名で埋まっていく――。




