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第86話 詩人と満席の午後

昼下がり。

 カフェ<カオスフレーム>は、いつになく賑わっていた。


 カウンター前まで続く行列。

 窓際の席では、旅人たちが次々と香りに誘われて腰を下ろしていく。

 外まで溢れた客たちは、店先の風鈴を眺めながら順番を待っていた。


 どうやら、“帰還のブレンドが街で噂になったらしい。


「ねえ、詩人殿!」

 ポエールが鎧を鳴らしながら手を振る。

「客の半分は“旅に出たいって言ってるぞ! 君の珈琲のせいだ!」


「……じゃあもう半分は?」

「“帰ってきたいって言ってた!」


 なるほど。

 それなら、珈琲としては成功だ。


◇ ◇ ◇


 カウンターの前で、オグリが新聞を脇に置きながら口を挟んだ。

「ブレンド三、パフェ二、あとハーブティー“マッスル仕様が一だってよ」

「……なぜあなたが報告してるんですか」

「耳が良いからな。馬だけに」


 そのすぐあとに、厨房の奥から「混ぜすぎて固まった!」という叫びが響いた。

 どうやらマーリンが、筋肉でプロテインを攪拌しすぎたらしい。


◇ ◇ ◇


 私は湯を注ぎながら、旅のことを思い出していた。

 “灰のカフェで感じた静けさ。

 鐘楼の音。

 夜明けの焙煎の匂い。


 どれももう遠い出来事なのに、

 心の奥では、まだ続いている気がする。


「……あの味を、もう一度再現できるかな」


 呟くと、カウンターの下から“ぷにぃと音がした。

 グラスが丸く跳ねて、私を見上げている。


「手伝ってくれるの? ありがとう」


◇ ◇ ◇


 私は焙煎器を取り出し、少量の豆を入れた。

 火を弱め、ゆっくりと回す。

 ぱち、ぱち、と小さな音。

 焙煎中のリズムが、心臓の鼓動と重なっていく。


 ポエールが鎧を外して風よけになり、

 オグリが新聞で火加減を扇ぎ、

 マーリンが筋肉で空気の流れを制御してくれる。


 ――なんだろう、この安心感。


 旅のときには、ひとりで風を感じていた。

 けれど今は、みんなが“風の一部になっている。


◇ ◇ ◇


 香りが立った瞬間、私は気づいた。


 あの夜明けの味は、孤独と希望の混じった味だった。

 でも今の香りには、もっと違う温かさがある。


“帰る場所がある焙煎


 私はノートにそう書き、

 できあがった珈琲を一口飲んだ。


 柔らかくて、丸い味。

 夜明けの苦味は、今では優しい午後の余韻になっていた。


◇ ◇ ◇


「新しいブレンド、完成?」

 マーリンが覗き込む。

「ええ。“午後の風ブレンドです」

「味の説明は?」

「“帰り道の途中に立ち寄る安心感です」


「最高じゃない!」

 マーリンが拍手し、ポエールの鎧がカンカンと鳴る。

 オグリは無言でストローを三本持ち上げた。


 笑い声が、風の音と混ざる。

 午後の陽光が、カフェのガラスを通って床に落ちた。


◇ ◇ ◇


 満席の客たちの間で、

 香りがゆっくりと広がっていく。


 遠くの旅人が笑い、

 詩人がペンを走らせ、

 子どもが泡の上にハートを描く。


 この空間全体が、ひとつの詩みたいだった。


“風が満ち、香りが輪になる。

それを“午後と呼ぶ。


◇ ◇ ◇


 私はふと、旅先の風を思い出して目を閉じた。

 その風は、もう寂しさではなく――

 ここに帰ってきた幸せの味をしていた。


◇ ◇ ◇


――次回予告――

第87話「詩人と風のレシピ帳」

「満席の午後を経て、マリエルは詩と珈琲の“調合帳を作り始める。

 そこに書かれた言葉は、やがて“詩人のレシピとして伝説になる――。」

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