第85話 詩人と帰還の風
街道を渡る風の中に、懐かしい香りがあった。
焦がした豆の匂いと、ほんの少し灰の匂い。
それは、私が焙煎した“夜明けのブレンド”の香りに似ていた。
丘を越えた先に、木の看板が見える。
色褪せた文字。
でも、それを見た瞬間、胸の奥がふっと温かくなった。
Café Chaos Frame
「……ただいま」
その言葉は、風に乗って静かに消えた。
◇ ◇ ◇
扉を押すと、鈴が鳴った。
その音が、まるで“帰還”を祝福してくれるようだった。
「おかえりなさい、詩人殿!」
がしゃん、と金属音。
ポエールが立っていた。
鎧はいつも通り光り、スライムのグラスが足元で跳ねている。
「詩人殿、風が君をここに戻したのだな!」
「ええ、ちょっと長いコーヒーブレイクでした」
笑うと、鎧の中の目が柔らかく細くなった。
音が優しく鳴る。
――それだけで、胸の奥の何かがほどけていった。
◇ ◇ ◇
「おい、マリエル!」
奥から馬の嘶きが響いた。
オグリ・ジュンが新聞を掲げたまま、ストローをくわえている。
「ブレンドを。今日はストロー三本な」
「三本も?」
「ひとつは感動用だ」
どうやら、感情が豊かになったらしい。
彼の馬面が少し赤いのは、たぶん照れているからだ。
◇ ◇ ◇
「マリエルっ!」
カウンターの向こうから、ひときわ元気な声。
ローブの下から筋肉が覗き、ダンベルのような杖を掲げている。
マーリンだ。
「見てよ! 新作パフェ“マッスルマウンテン”!
帰ってきたら食べさせてあげようと思って!」
「ありがとうございます。……カロリー、山脈ですね」
「甘さは努力の結晶よ!」
そのやりとりに、オグリが吹き出し、ポエールの鎧ががしゃがしゃと揺れた。
笑い声がカフェを満たす。
その音が、詩の一行よりもずっと美しい気がした。
◇ ◇ ◇
私はカウンターに立ち、
旅の間ずっと大事にしていた小瓶を取り出した。
“追い風のエッセンス”。
マーリンからもらった旅の香水。
「この香りで、新しいブレンドを作りましょう」
ポエールがうなずき、オグリがストローを鳴らす。
マーリンが筋肉をきゅっと曲げた。
「名前は?」
「“帰還のブレンド”」
私は豆を挽き、湯を注ぐ。
香りがふわりと広がった瞬間、
カフェの空気が少しだけ光を帯びた。
◇ ◇ ◇
「香りが……風みたい」
マーリンが呟いた。
「風は帰る場所を知ってるんです」
私は微笑む。
「そして、言葉もそう。
どれだけ遠くへ行っても、必ず“読まれる場所”に戻る」
カップを置くと、湯気の中に旅の記憶が溶けていった。
灰のカフェ、鐘楼の丘、夜明けの焙煎――
すべてが、今この一杯に混ざっている。
◇ ◇ ◇
私はノートを開き、
ゆっくりとペンを走らせた。
“旅とは、香りの回帰。
風が吹いたら、またここで詩を淹れよう。”
書き終えると、ポエールが静かに頷き、
オグリが新聞を閉じ、
マーリンが満足げにパフェを頬張った。
◇ ◇ ◇
外の風がカフェの窓を揺らす。
鈴の音がまた鳴った。
――誰かが、また新しい詩を運んできたのかもしれない。
私は笑って言った。
「いらっしゃいませ。ようこそ、カフェ<カオスフレーム>へ」
◇ ◇ ◇
――次回予告――
第86話「詩人と満席の午後」
「帰還の香りが街に広がり、カフェは大賑わい。
でもマリエルが一番気にしていたのは――“旅の味”の再現だった。」




