第84話 詩人と夜明けの焙煎
夜がゆっくりと終わっていく。
灰色の空が、少しずつ金色を帯びていく。
私は丘の上に立っていた。
昨日訪れた“灰のカフェ”の煙が、遠くの空に細く伸びている。
ポケットの中には、老詩人にもらった紙片が一枚。
そこには、焙煎の温度と、詩の一節が書かれていた。
“火は言葉を試し、香りに変える。”
――なるほど。
それなら、私も試してみよう。
◇ ◇ ◇
広場の外れに、小さな焙煎台があった。
旅商人が使っていたらしいが、今は誰もいない。
手回しのハンドル、煤けた鉄鍋。
まるで、時間の止まったカフェの心臓みたいだ。
私は持っていた少量の生豆を入れた。
火をつけると、ぱち、ぱち、と音が弾ける。
空気が少しずつ温かくなる。
その音に合わせて、私はノートを開いた。
“焦がすのではなく、焦がれるように。
風と恋する豆は、やがて香りとなる。”
◇ ◇ ◇
リリクがあくびをしながらやってきた。
「おはよう、マリエル。こんな朝早くに何してるの?」
「焙煎です。夜明けの詩を淹れたくて」
「詩を、淹れる……?」
「ええ。灰のカフェで聞いたんです。
“詩も豆も、火を通して初めて香る”って」
リリクは眠たげに笑い、
手を合わせて祈るように言った。
「じゃあ僕も、音で火を見守るよ」
◇ ◇ ◇
彼が口笛を吹き始めると、
火の揺れ方が変わった。
まるで旋律に合わせて呼吸しているようだった。
ぱち、ぱち、ぱち――
豆が少しずつ色づいていく。
焦げる寸前の甘い匂い。
詩人の心が、熱に溶けていくみたいだった。
私はひとつ息を吐いて、ノートに書き足した。
“焙煎とは、記憶の再構築。
灰の中に埋もれた想いを、
再び香りへと変える術。”
◇ ◇ ◇
「ねえ、リリク。
この香り、何かに似てると思わない?」
「うん。……“カオスフレーム”の朝」
その言葉に、胸が少し痛くなった。
カウンターの音、馬のいななき、がしゃがしゃ鳴る鎧、
そして筋肉の魔法少女。
「みんな、元気かな……」
「きっと、君のことを感じてるさ。
この香りは、風に乗る」
私は頷いた。
焙煎鍋を傾けると、豆が軽やかな音を立てて弾んだ。
◇ ◇ ◇
豆を挽き、お湯を注ぐ。
湯気の向こうで、朝日が昇る。
金色の光がカップを透かし、
香りがゆっくりと空へほどけていく。
私は一口、飲んだ。
苦味のあとに、柔らかな甘み。
そして、ほんの少しだけ灰のような余韻。
「……成功です」
「名前、つけるの?」
「はい。“夜明けのブレンド”。
終わりと始まりが同じ味をしてる」
◇ ◇ ◇
リリクがピアノの代わりに石を叩き、
小さなリズムを刻む。
私は笑って、その音に合わせて書いた。
“詩を焙じる。
それは、生きることをもう一度肯定する行為。”
◇ ◇ ◇
焙煎台から上がる煙が風に乗り、
遠くの街へ流れていく。
どこかで、“灰のカフェ”の老詩人が
それを嗅いで微笑んでいる気がした。
そして、もっと遠く――
カフェ<カオスフレーム>の朝にも、
ほんの少しだけ“夜明けの香り”が届いていた。
◇ ◇ ◇
――次回予告――
第85話「詩人と帰還の風」
「旅の香りを携えて、マリエルは再び帰路につく。
カフェ<カオスフレーム>で、詩と珈琲の物語がひとつの輪を描く。」




