第82話 詩人と灰色の手紙
朝。
まだ陽の上らない薄明の時間。
宿の窓辺に、ひとつの封筒が置かれていた。
色は灰――けれど光の加減で、淡い銀にも見える。
封はされておらず、宛名も差出人も書かれていなかった。
「……また、風の配達かな」
私は指先で紙をなぞる。
冷たくて、少しだけ湿っている。
けれど、まるで心臓のように“脈”がある気がした。
◇ ◇ ◇
封筒を開くと、
中には一枚の便箋が入っていた。
けれど、文字は滲んでいる。
まるで――涙で濡れたみたいに。
その水滴が、まだ乾いていない。
私は思わず囁いた。
「……泣いてるの?」
便箋はかすかに震え、
水滴がぽたり、と落ちた。
◇ ◇ ◇
私はその紙をカウンターのように両手で支えた。
リリクが隣で驚いた顔をしている。
「詩が、泣いてる……?」
「ええ。でも、不思議。悲しみの涙じゃない気がする」
便箋に目を落とすと、滲んだ文字がゆっくりと形を戻していく。
涙が乾くたびに、言葉が読めるようになる。
“――あなたが鐘を鳴らしたとき、
風がまた、私を呼んだ。”
“影の詩人”の筆跡だった。
◇ ◇ ◇
“詩は、心が生きた証。
けれど心は、いつも形を変える。
あなたが今見ているこの言葉も、
もうすぐ風に還る。”
読み進めるうちに、
便箋がほんのり温かくなった。
まるで、誰かが握っているみたいに。
「……これ、まさか」
「生きてる?」
「ええ。“詩の心”がまだ、宿ってる」
◇ ◇ ◇
その時、窓の外で鐘が鳴った。
昨日の鐘楼からだ。
風が吹き込み、便箋の端が揺れる。
涙の跡が光を反射して、
まるで文字が“笑っている”ように見えた。
“ありがとう。
私はもう、悲しみで泣いているわけじゃない。
詩が続く限り、どこかで笑っていられるから。”
それが、最後の一文だった。
◇ ◇ ◇
手紙の紙が音もなくほどけ、
灰の粒となって風に乗った。
それは煙でも塵でもない――
まるで、ひとひらの“息”のようだった。
リリクが静かに呟く。
「……詩が泣いて、笑った」
「ええ。たぶん、彼女はもう大丈夫」
◇ ◇ ◇
私はノートを開き、
乾いた指先で一行を書いた。
“涙はインク。
心は紙。
そして詩は――その二つを結ぶ橋。”
書き終えた瞬間、
風がそのページをめくった。
まるで、“続きを任せたよ”とでも言うように。
◇ ◇ ◇
私は顔を上げ、笑った。
「……ありがとう。ちゃんと、届きました」
リリクも頷く。
「手紙は終わったけど、詩は続くんだね」
「ええ。灰になるまで書くわ」
外では、鐘が二度鳴った。
それは“別れ”ではなく――“再会”の音だった。
◇ ◇ ◇
――次回予告――
第83話「詩人と灰のカフェ」
「灰色の手紙が消えたあと、マリエルは街外れの古い喫茶店に辿り着く。
そこに漂うのは――焼けた詩の香りだった。」




