第80話 詩人と街角の旋律
風の匂いが変わった。
土と花と、少し焦げた砂糖の匂い。
それが、この街の“はじまりの香り”だった。
私は石畳を歩く。
道の両側には屋台が並び、
果物の色も、声の調子も、カフェとはまるで違う。
だけど、どこか懐かしい。
世界のあちこちに“詩のかけら”が漂っている。
――これが、“外の詩”か。
◇ ◇ ◇
広場に出ると、
人だかりができていた。
その中心に、古びたピアノ。
木の表面はところどころ剥げているが、
鍵盤はまだ白く光っていた。
ピアノの前に、ひとりの少年が座っている。
年の頃は十四、五。
栗色の髪に、風がいたずらするように遊んでいた。
彼は指を鍵盤に置くと、
ゆっくりと、ひとつ息を吸い込んだ。
そして――弾いた。
◇ ◇ ◇
音が、風に乗った。
柔らかくて、どこか懐かしい。
広場のざわめきが少しずつ静まる。
野菜を売っていたおばさんも、
旅人も、兵士も、足を止めて聴き入っていた。
曲は、ゆっくりと流れ、
やがて少年の声が重なった。
“君の声が聞こえる 風の隙間から
遠い日々の残響が まだ胸を打つ”
その詩に、私は覚えがあった。
……“影の詩人”の詩だ。
◇ ◇ ◇
私は息をのんだ。
どうしてこの少年が、その詩を?
曲が終わると、
拍手がわっと広がった。
けれど少年は照れくさそうに笑い、
ピアノを撫でながら呟いた。
「……この曲、誰が書いたのか知らないんだ。
でも、風が耳元で“弾け”って言ったんだ」
私は一歩、近づいた。
「それ、詩ですよね?」
「うん。でも本当は歌詞じゃないみたいだ。
もともと“手紙”だったらしい」
手紙。
――風の書簡。
◇ ◇ ◇
私はノートを開き、
ポケットからスプーンの欠片を取り出した。
それを光にかざすと、
銀が小さく震えた。
「ねえ、君。
その詩を、もう一度聞かせてもらえる?」
少年は驚いたように目を瞬かせた。
「えっと、いいけど……聞いてくれるの?」
「ええ。
“風が連れてきた言葉”には、耳を傾ける義務がありますから」
私は微笑んだ。
そして、風が吹いた。
◇ ◇ ◇
少年がもう一度、鍵盤に触れる。
旋律が空へと溶けていく。
私は胸の中で、静かに詩を紡いだ。
“音は息。 息は心。
心は風に乗り、誰かの詩になる。”
少年の声と、私の心の詩が重なる。
二重の旋律――“音”と“言葉”の共鳴。
◇ ◇ ◇
演奏が終わると、少年が私を見た。
「あなた、もしかして……詩人?」
「そう呼ばれたことはあります」
「やっぱり。風が教えてくれた」
彼は笑った。
それは、“影の詩人”に似た笑い方だった。
◇ ◇ ◇
「君の名前は?」
「リリク。旅の途中で拾われた音楽家さ」
「いい名前ね。詩みたい」
「あなたは?」
「マリエル。カフェの詩人です」
「カフェ……か。
今度、そこでこの曲を弾いてもいい?」
私は頷いた。
「もちろん。詩のある場所に、音があれば、それで完璧です」
◇ ◇ ◇
風が二人の間を抜けた。
音と詩が一緒に揺れる。
私は旅のページに、一行を記した。
“詩が音を見つけた。
風はまた、新しい声を運んでいく。”
◇ ◇ ◇
――次回予告――
第81話「詩人と鐘楼の午後」
「少年リリクとの出会いの後、マリエルは鐘楼の下で新たな詩の気配を感じる。
それは――“影の詩人”の残した、最後の旋律だった。」




