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第79話 詩人と旅立ちの香り

朝のカフェに、春の匂いが流れ込んできた。

 豆を挽く音と、窓の外の風の音が重なって――

 まるで季節そのものが、カウンター越しに話しかけてくるようだった。


 私はスプーンを見つめる。

 もう、昨日のように光ることはない。

 けれど、そこに残るかすかな指紋が、

 “影の詩人”が確かに存在した証のように見えた。


◇ ◇ ◇


「詩人殿。今日は静かであるな」


 ポエールが入ってきた。

 鎧の継ぎ目から朝日が差し込み、

 彼の姿がまるで一枚の絵のようだった。


 足元でグラスが“ぷにぃ”と鳴く。

 カウンターの下に潜り込み、

 丸くなってコポコポと泡を立てた。


「静かですね。……嵐の前の、みたいな」

「嵐?」

「心の中の、です」


 ポエールが少し首を傾げた。

 鎧の隙間から光がこぼれ、

 無表情な兜の奥で、彼の声だけが優しかった。

 たぶん、笑っているのだと思う。


◇ ◇ ◇


 扉の鈴が鳴いた。

 マーリンがローブの裾を翻して入ってくる。

 栗色のツインテールを揺らしながら、

 大きなマグカップを手にしていた。


「おはよう、マリエル。昨日の手紙……読んだんでしょ」

「ええ。全部、風が消していきました」

「そう。それなら、そろそろ“詩人”として外を見てくる時期ね」


「外を?」


「風が運んでくる詩は、いつも世界の外側から。

 あなたがこの店で学んだのは、

 “香り”と“言葉”の調合だけ。

 でも――外には、まだ知らない香りがあるのよ」


 マーリンは言いながら、

 腰のポーチから小瓶を取り出した。


 透明な液体の中で、薄い金の粉が漂っている。


「旅の香水。“追い風のエッセンス”。

 吹きかけた方向に風が流れる魔法よ。

 詩人に、これを贈るわ」


◇ ◇ ◇


 私はその小瓶を両手で受け取った。

 キャップを開けると、

 ほんの一瞬だけ、柑橘と焙煎の香りが混ざった。

 どこか懐かしくて、胸の奥が熱くなる。


「……外の世界には、どんな詩が待ってるんでしょうね」

「詩人殿が行けば、それが新しい詩になる」

 ポエールが言った。

「つまり、“旅”こそが詩である」


 その言葉に、私は笑って頷いた。


◇ ◇ ◇


 昼前。

 私はエプロンを外して畳んだ。

 窓の外では、看板のリボンが風に揺れている。


「ポエールさん、マーリンさん。

 しばらくお店をお願いします」

「心得た!」

「任せて。詩人の机は空けておくわ」


 グラスが“ぷにぃ”と鳴き、

 カウンターの上をぽよんと跳ねる。

 まるで「いってらっしゃい」と言っているみたいだった。


◇ ◇ ◇


 私は扉の前で一度だけ振り返った。

 カフェ<カオスフレーム>。

 ここは私の詩の始まりであり、きっと終わりではない場所。


 風が頬を撫でた。

 香水の匂いが混ざり、

 見えない指が背中を押す。


「……じゃあ、行ってきます」


 扉を開けると、

 春の風が一斉に鳴いた。


◇ ◇ ◇


 街の通りは、想像よりも鮮やかだった。

 屋台の湯気、鐘の音、そして遠くの歌声。

 詩が世界に満ちている。


 私はノートを開き、

 一行だけ書いた。


“旅立ちは、

一杯の珈琲が冷める前に。”


 そのページが、風にめくられた。

 どこかで、“影の詩人”が微笑んだ気がした。


◇ ◇ ◇


――次回予告――

第80話「詩人と街角の旋律」

「カフェを離れたマリエルが出会うのは、

 街角で歌う少年と、彼を見守る古びたピアノ。

 その旋律が、詩人の心に新しい風を吹き込む――。」

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