第78話 詩人と風の書簡
朝のカオスフレーム。
今日は風が少し強い。
ドアのベルが鳴らなくても、
風だけが出入りしているみたいだった。
私は一人で開店準備をしていた。
テーブルを拭き、カップを並べ、
ミルの取っ手を回すたびに、粉の香りが舞う。
「風が元気すぎて、看板が飛びそうですね……」
そんな独り言を呟いた時だった。
扉が開き、金属音が軽やかに響いた。
「おはようございます、詩人殿!」
鎧をきらめかせ、ポエールが入ってくる。
その足元では、スライムのグラスが“ぷにぃ”と跳ねていた。
「おはようございます、ポエールさん。
今日も朝一番ですね」
「我が愛騎グラスの跳ね足が軽いのだ! 風が良い証拠である!」
彼が笑ったその瞬間、
カウンターの上で――ふわりと紙が舞い降りた。
◇ ◇ ◇
「……?」
見上げると、天井の梁に小さな風の渦ができている。
そこから、一枚の便箋がひらひらと落ちてきた。
封筒も切手もない。
ただ、やわらかな紙に銀のインクで詩が書かれていた。
“マリエルへ。
二度目の詩人に贈る、最後の手紙。”
――“影の詩人”の筆跡だった。
◇ ◇ ◇
私は紙をそっと持ち上げた。
風が文字をなぞるように吹き抜けていく。
まるで手紙そのものが、
風に生きているみたいだった。
“私たちは詩を通じて繋がる。
だが詩そのものは、誰のものでもない。
風が運び、心が受け取る。
そのたびに、新しい詩人が生まれる。”
読むごとに、胸の奥で何かが揺れた。
それは懐かしいようで、切ないようで、
でも不思議と心地よかった。
◇ ◇ ◇
マーリンが厨房から顔を出す。
「マリエル、今の……手紙?」
「はい。風が運んできたんです」
「へぇ……風の伝達魔術。
でも、こんなに精密な書体を維持できるなんて、尋常じゃないわ」
「“影の詩人”からのものです。
たぶん、これが最後の言葉」
マーリンは頷き、
静かにカップを差し出した。
「その手紙を読みながら、一杯どうぞ。
風は詩を、珈琲は記憶を運ぶのよ」
◇ ◇ ◇
私はカップを受け取り、
湯気の向こうに紙を置いた。
銀のインクが、蒸気を受けてかすかに光る。
次の行を読み上げた。
“マリエル。
あなたが綴る詩は、もう私のものではない。
けれど、私の心の欠片は、あなたの言葉に宿った。
だから、どうか――”
文の途中で、風が吹き抜けた。
インクの文字が、ゆっくりと空気に溶けていく。
“――あなた自身の詩を、書きなさい。”
◇ ◇ ◇
それだけを残して、手紙は消えた。
破れも焦げもなく、
まるで風に還るように、静かに消えた。
「……詩人殿。手紙は?」
「もう、どこにもありません」
私はカップを見つめた。
中の珈琲に、風が小さな波紋を作っている。
「けれど、伝わりました。
“次の詩”を、書く時が来たんです」
◇ ◇ ◇
マーリンが微笑む。
「つまり、“卒業証書”ね」
「そうかもしれません。
風に押印された、世界一軽い証書です」
ポエールが鎧を叩いて笑う。
「詩人殿、風に学び、風に返す!
見事な修行である!」
グラスが“ぷにぃ”と跳ね、
風に乗ってカップの香りを揺らした。
◇ ◇ ◇
私はノートを開き、
空白のページにペンを置く。
筆先が自然に動く。
“風が持っていった言葉の続きを、
私が書く。
このカフェが、次の詩の始まりだから。”
ページがめくられ、風が通り抜けた。
それはまるで、“影の詩人”の拍手のようだった。
◇ ◇ ◇
――次回予告――
第79話「詩人と旅立ちの香り」
「影の詩人の手紙を受け取ったマリエルは、
新しい詩を求めて“カフェの外”へ出る決意をする――。」




