第77話 詩人と心の転写
夜明け。
空の色がまだ定まらない時間。
カフェ<カオスフレーム>の中は静かだった。
昨夜、スプーンの声が消えてから、
私はなんとなく眠れなかった。
カウンターに座り、
ノートを開く。
新しい一ページ。
白い紙の上に、
朝の光が細く射し込んでいた。
◇ ◇ ◇
ペンを持ち、
いつものように詩の一行目を書こうとした。
“朝の息を、吸い込む。”
……はずだった。
書き終えた文字を見て、
思わず息を止める。
――字が、違う。
私の筆跡じゃない。
丸みを帯びていて、
どこか優しく、
まるで“誰かの声”のようだった。
◇ ◇ ◇
「……どうして?」
もう一度ペンを取る。
試しに別の言葉を書く。
“今日の光はまだ眠っている。”
また、違う筆跡。
けれど、どこかで見覚えがあった。
そう――“影の詩人”の手跡。
銀のスプーンに浮かんでいた、あの筆の癖。
◇ ◇ ◇
カウンターの上のスプーンが、
かすかに光った。
「……あなた、まだいるんですか?」
“もう声はない。
だが、詩は心を写す鏡。”
直接の声ではなかった。
ただ、頭の奥に響くようにして、
言葉が浮かんできた。
◇ ◇ ◇
ポエールが戸口から入ってきた。
鎧の継ぎ目から朝の光が反射して眩しい。
その下で、グラスが“ぷにぃ”と鳴いた。
「おはようございます、詩人殿!」
「おはよう、ポエール。……ねえ、これ、見てください」
ノートを見せる。
彼は眉をひそめて、唸った。
「む……この筆致、昨日の声の主では?」
「やっぱりそう見えますか」
「うむ。詩が……転写されておる」
「転写……?」
「剣の道でもあるのだ。
達人の心が弟子に写り、無意識のうちに同じ型を取る。
おそらく、詩にも同じことが起きておるのだろう」
なるほど。
言葉の型が、心を通じて“伝わる”――
それが“心の転写”。
◇ ◇ ◇
マーリンが遅れて現れた。
筋肉ローブの袖をまくりながら、コーヒーの香りを嗅ぐ。
「なんだか朝から不思議な空気ね」
「マーリンさん、筆跡が勝手に変わるんです」
「ほう。書くほどに詩が別人になる――それ、面白い現象ね」
マーリンはスプーンを見て頷いた。
「“残響詩”の効果が残ってるのよ。
あれは記録ではなく“継承”の魔術。
前の詩人の心が、あなたの詩の中に同居してるの」
「じゃあ、私は……二人分の詩を書いてる?」
「ええ。
たぶん、前の詩人が“まだ言えなかった言葉”を、
あなたの手を借りて完成させようとしてる」
◇ ◇ ◇
私はノートを閉じ、
静かに深呼吸した。
確かに、胸の奥で、
誰かが“言葉を探している”気配がする。
ペンを再び握る。
“書きかけの詩を、
もう一度、世界へ。”
――手が、勝手に動いた。
次の瞬間、
ページの上で筆跡が二つに分かれ、
一つの詩を“共同で”書いていく。
私の線と、影の詩人の線。
それが交差し、重なり、ひとつの形になった。
◇ ◇ ◇
その瞬間、スプーンが柔らかく光を放った。
まるで満足そうに、息を吐くように。
“ありがとう。
私の詩は、あなたの声で完成した。”
そして光は消えた。
今度こそ、静かに、穏やかに。
◇ ◇ ◇
私はノートを見下ろす。
そこには二人の筆跡で綴られた一編の詩。
“心は器。
器は声。
声は風。
風は誰かの詩になる。”
ページの端が、
そっと風にめくられた。
◇ ◇ ◇
ポエールが小さく息をついた。
「詩人殿……それは、まさしく“二重の韻律”」
「二重の韻律?」
「心と心が重なった時にだけ生まれる詩の波。
我が故郷の吟遊詩人がそう呼んでおった」
「二重の韻律……。
――なんて素敵な響きでしょう」
私は笑って、カウンターにペンを置いた。
その音が小さく鳴り、
新しい朝が始まった。
◇ ◇ ◇
――次回予告――
第78話「詩人と風の書簡」
「詩が書かれた翌日、マリエルのもとに“風で届く手紙”が舞い込む。
そこには、“影の詩人”から最後の贈り物が記されていた――。」




